概要
当時日本テレビ系列で放送されていたバラエティ番組『電波少年』より派生した兄弟番組。本家の電波少年は日曜の夜に放送されていたのに対し、こちらは日曜の朝に放送されていた。これは当時日曜朝に放送されていた裏番組の『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ系列)に対抗しようという土屋敏男プロデューサーの意向から、日曜朝の放送に決まった。
企画内容は基本的に電波少年と変わらないが、放送当初はヒッチハイク企画でブレイクしたドロンズをメインにした日本の旅番組を放送していた。後にロバのロシナンテが加わり、ドロンズのお供として企画に参加してさらに人気を得た。
オープニングは背景・BGMとも「電波少年」のそれをベースとしているが、新たにサンバのリズムや、CGイラストによるブラジルのサンバ隊の女性が追加されるなど、派生元である『電波少年』とは一線を画したものとなっている。
MCは基本的に決まっておらず、放送初期はVTRのみで処理されその後は約月替わりで代わり、チューヤン、千秋、遠藤久美子、渡辺正行、室井滋等の著名人が担当していた。
結局はロシナンテがメインMCになってしまったが。(ロバのくせに…)
主な有名企画
雷波少年系熱狂的巨人ファンシリーズ
都内某所に設置されたテントまたはマンションの一室の中で一年間、巨人(読売ジャイアンツ)を応援しながら生活するという企画。
主なルールは応援する球団の勝敗で待遇が変化し、勝利した場合は食事が与えられ、連勝すると食事の他にご褒美が提供される。ご褒美の内容は食事のラーメンやご飯に加えておかずが追加される他、連勝が伸びれば伸びるほど「彼女に会える」「ペアでハワイ旅行」など豪華なものになっていく。優勝した場合は素顔と名前公開に加え豪華な副賞も得られる。
逆に負けた場合はペナルティとして食事抜きとなり、絶食を強いられ、同時に電気・水道もストップとなる。更に3連敗した場合は丸刈りにしなければならない。因みに電気が止まっている間も野球中継は普通に見ることが出来る。企画当初は敗退の際には断水により水を飲むことも出来なくなっていたが、1999年において最初の巨人ファンが連敗が重なった時期に脱水症状を起こしたため、医師の指示でそれ以後は勝敗に関係なくスポーツドリンクが支給されることになった。
また、移動日や雨天中止などで試合が無い日は直前の試合の結果が適用される。例えば移動日の前日の試合で負けてしまった場合は、2日連続で食事抜きとなる。それに雨天中止などが重なった場合は、連敗もしていないのに絶食状態が続くことになる。
本企画は3シリーズに渡って放送され、98年は横浜ベイスターズ、99年には中日ドラゴンズが優勝したためどれも企画は失敗に終わり、2000年にようやく巨人が優勝した為、晴れて挑戦タレントの素顔が全て明らかとなった。そして優勝特典として当番組のMCを期間限定で担当した。
室井滋企画
女優の室井滋が、演歌歌手役で出演した映画で歌った歌のカセットテープをアジア各国へ自ら売り歩く企画。
スタートはタイのドエンカ(どえんか→ど演歌というダジャレ)村。その場所である程度売り歩いたところで次の場所へ移動。行き先は目隠しした状態でダーツを行い、用意した地図に矢が刺さった国を渡り歩くことが決められていた。
ルールとしては日本人に売却するのは禁止だが売価は自由。そして、目標の1,000本売った時点で企画終了し企画終盤に投げた矢がアジアの地図から大きく外れ、用意されていた地図の縮尺からカリブ海周辺に該当する場所に当たってしまい、急遽『雷波少年系カリブの歌姫』と企画が変更される。だが、この企画は表向きでは室井がロシアにて目隠しをされたままカリブーに乗ったあと悲鳴をあげるという、いわゆるダジャレ企画であり、本当の内容は後述のラストシリーズに参加したBluem of Youthに対し、室井がカレーの差し入れを行い応援をする企画へつなげるためのものでもあった。
なお、スケジュール等で室井に仕事が入った場合は、一時中断しその仕事が終わり次第再びこの企画を行っていた。
ラストシリーズ
曲が全く売れず、所属事務所とのレコード契約も打ち切り寸前のがげっぷち歌手グループに対するその名の通り最後のチャンス企画である。
参加する歌手達は3ヶ月もしくは半年の間に旅や生活をしながら運命の一曲を制作しそれを実際に販売あるいは会場で披露し、所定の目標に達成できれば所属事務所と再契約し歌手としてそのまま活動を続ける。逆に目標達成できなければグループは解散し、そのまま芸能界を引退。以降は音楽から離れた一般企業し就職して生活するというまさに天国と地獄の企画である。
第1弾はデビュー3年目のSomethingELse(以下「サムエル」)が挑戦。彼らは3ヶ月の間、番組が用意したアパートの一室で共同生活を送り、生活費も彼らが用意した必要最低限分しか支給されない。ルールは3カ月の合宿生活の中で運命の1曲を作り、その曲がオリコン初登場20位以内に入らなければ即解散および音楽業界から足を洗うというもの。
いくつかの曲を作ればやり直し、自信作が出来てもマネージャーからはなめてんのか!と酷評を受けるばかりで次第に自信を無くしていったが、その度にメンバー同士が励ましあった事でより一層絆が深まっていった。
そして、1998年12月23日に運命のCD「ラストチャンス」が発売され、20万5340枚を売り上げ1999年1月6日付のオリコン初登場2位を記録。これによりユニットの存続が決定した。その後「ラストチャンス」は初登場の翌週にはオリコン1位を記録し、最終的にはミリオンセラーとなり第50回NHK紅白歌合戦にも出場。2006年の解散まで、ユニット活動を継続した。
第2弾はデビュー5年目のBluem of Youth(以下「ブルーム」)が挑戦。彼らは半年の間にシベリア鉄道でロシアのモスクワからウラジオストクまでのシベリア大陸を横断し、その間に運命の1曲を作り帰国後、日本武道館で公演を行うことが目標である。観客動員が10000人(武道館の客席の約7割)を上回ればそのまま歌手として活躍し続けるが、逆に10000人に満たなければグループは解散し、音楽業界から足を洗うというルールだった。その間の生活費は全てストリートライブ等で補わなければならず、野宿やマンホールの中での生活も強いられるラストシリーズ屈指の過酷企画であった。
その為、事あるごとにメンバー同士で諍いを起こしたり、しまいには作曲を放り出すほどメンバー仲は悪化の一途を辿り、企画は継続不可能かと思われる程だった。しかし、そんな荒んだ彼らの心を癒したのは地元の人々であり、彼らが作曲した曲を誰よりも応援し、励まされたことから彼らは再度奮起し、多くの出会いや別れを繰り返しながらひたすら旅を続けた。
やがて、旅の中間地点に差し掛かった頃に今まで作成した数曲の作品を番組を通じて日本の視聴者に披露し、視聴者にアンケートをとったところほぼ全員がどれもほしくないという散々な結果となった。この結果を真に受けた彼らは旅を一時中断し、ロシア郊外の人里離れた山奥に篭り、数週間飲まず食わずの崖っぷち状態で運命の一曲を作成し、約9ヶ月かけてゴールのウラジオストクに到着しそのまま日本に帰国。
最終的に行われた公演では平日の公演にもかかわらず目標を上回り、1回目の公演では11427人が武道館に入場した。本来は1回だけの予定であった公演も、3万人近くの人が会場に集まったため急遽2回目の追加公演が行われるという事態となり、2回目の公演でも1万人以上の観客を動員。
武道館公演で披露された運命の1曲「ラストツアー」は企画終了後CD化され、サムエルの運命の1曲「ラストチャンス」と同じオリコン初登場2位を記録した。
その後、2003年から2008年までの活動休止(2005年にデビュー10周年記念ライブでの限定復帰を除く)を経て、現在は活動を再開している。
本企画は雷波少年史上の大ヒットシリーズとなり、その人気の影響から未公開シーンを含めた完全版のvhsをリリースする程でもあった。
第3弾は番外編としてお笑いコンビが参加した。
電波少年の企画を途中でリタイアした後、本番組プロデュースの娯楽企画を改めて参加したにもかかわらず仕事を放り出してナンパをする悪行したお笑いコンビポプラ並木が懲役10年の刑で雷波少年院にで収容。毎週1回行われるコントで得たカンパ金から100円を支払えば1日刑期が短縮されるというルールであり、北海道の網走刑務所付近からスタート。単純計算で約36万円を支払えばゴールとなり釈放される。その後は北海道、東北、関東、東海、関西、四国へ何度か移動を繰り返し、秘境である徳島県西祖谷山村でいったん落ち着いた。
しかし、その間にも企画の過酷さから幾度も脱走繰り返し刑期が追加されれば更に脱走したたことから、またしても企画続行は不可能と懸念されるようになる。このこともあって一時期韓国へも舞台を移し、さらにTプロデューサーから「ラストシリーズ」第3弾として「運命のラストコント」を提案。これで失敗し、カンパが刑期分集まらないと懲役が200年になるか芸人引退を迫られたが、最終的にラストコントでカンパ金を目標金額に達成し釈放された。
その後は顔を合わせた途端に喧嘩し始めるほどの不仲に陥った挙句、2002年のSP放送終了後に解散を発表。