S30
えすさんまる
この車種は1969年にダットサン・フェアレディ(日産が製造していたオープンカー)の後継車種であるフェアレディZとして発売された。
この車種はアメリカの子会社の発案で発売され、日産のイメージリーダーカーとなり、10年もの長い期間生産された。また日本国内販売8万台を記録した。
この辺りはwikipediaからの引用を修正したものである。
1969
日本国内ではSUツインキャブレターを装備したSOHCのL20型と、当時の旧プリンス系で開発されスカイライン2000GT-Rに搭載されていたソレックスツインチョークキャブレターを3基装備したDOHCのS20型の2種類の直列6気筒2.0 Lエンジンが設定された。
SOHCモデル(S30型)にはベースモデルで4速MT搭載「フェアレディZ」
5速MTを搭載し、AMラジオ付きカーステレオ、助手席フットレスト、リクライニングシートなどの装備を充実させた「フェアレディZ-L」
DOHCモデル(PS30型)「フェアレディZ432」
競技用ベース車両として、ヒーターすらオプションとなり、アクリル製ウィンドウを採用するなどの軽量化が施された「フェアレディZ432-R」も存在した。
なおアメリカとイギリスでは2.4 LのL型直6エンジンを搭載した「ダットサン240Z」(HLS30 / HS30型)を発売。
1970
フェアレディZ-Lに3速AT(ニッサンフルオートマチック)車を追加。
ハイオクガソリン仕様のみであったが、レギュラーガソリン仕様車も全グレードに追加発売された。L20はハイオクガソリン仕様130 ps, レギュラーガソリン仕様125 ps, S20は同160 ps, 155 ps.
1971
ベースのフェアレディZに3速AT車を追加および細部のマイナーチェンジ。それまで輸出専用であったL24型エンジン (2.4 L) を搭載した「フェアレディ240Z」「フェアレディ240Z-L」「フェアレディ240Z-G」を日本国内でもやっと発売した。
240Z-Gには「グランドノーズ」(後年の通称“Gノーズ”)と呼ばれるFRP製のフロントバンパー一体型のエアロパーツとオーバーフェンダーが装着された。
1973
2.0Lモデルの「Zシリーズ」をマイナーチェンジ。
昭和48年排出ガス規制適合、ダッシュボードの意匠変更とテールランプとリアガーニッシュの変更が施され、バックランプがガーニッシュ内に配置された。
折からの公害問題やガソリン高騰などにより、Z432シリーズと日本国内の240Zシリーズの2モデルの生産は中止された。
1974
全長を310 mm延長し、4人乗りモデルを追加 (GS30)。2by2と称した。輸出モデルは従前の2.4Lから2.6LのL26型エンジンの変更で排気量アップの「ダットサン260Z」(RLS30) に変更。260Zは一部を国内基準に適合させ、当時右側通行だった沖縄で販売されている。
1975
昭和50年度排出ガス規制の施行に伴い、SUツインキャブからL20E(ドイツ・ボッシュ社開発のL-Jetronic式電子制御燃料噴射装置・ニッサンEGI)に変更、同時に排気系に触媒を有する排気ガス浄化システム(ニッサン・アンチ・ポリューションシステム、NAPS)を装着。
型式が「A-S30・A-GS30」となる。
輸出モデルは従前の2.6Lから2.8LのL28E型エンジンの変更で排気量アップした「ダットサン280Z」(HLS30) に変更。ニッサンEGIシステムであるが、触媒などの排気ガス浄化システムは装着されていない。 北米モデルは5マイルバンパーと呼ばれるショックアブソーバ付きの大型バンパーを装着。
1976
Z-LをベースにFM/AMマルチカセットステレオ、電動式リモコンフェンダーミラー、パワーウインドウなどを追加装備した上級グレードの「フェアレディZ-T」を追加。
昭和51年度排出ガス規制(通称ゴーイチ規制)の施行に伴い、排気ガス還流装置 (EGR) などを追加装備。型式が「A-S30・A-GS30」から「C-S31・C-GS31」と変更。
このモデルの開発・販売を企画したのは1960年代当時の米国日産の社長であった。北米市場におけるブランド「DATSUN」拡販のために強力なイメージリーダーとなるモデルを求めていた。
しかしイギリス製小型スポーツカーを少々いじった程度のダットサン・フェアレディでほかの車種にかなわないことに気づいていた。
そこでアメリカ市場でのニーズに適合した新しいスポーツカーの開発を要望、熱心な働きかけを重ねた末に、日産本社から開発のゴーサインを得た。なお米国日産の社長は技術者ではなかったが、アメリカ市場のニーズを見据えて日産本社の開発陣に明確なコンセプトと適切なアドバイス(例として「ジャガー・Eタイプのような車を造ってくれ」と要望を出した)を与え、初代「Z」のプロデュースを主導し、そのスタイリングはその期待を十分に満たすものとなった。
この車種は本社ではそれほど期待されていなかったため、わずか3名からなる日産自動車第1造形課に託され開発が始まった。原案は5案のモデルが作成され、それを組み合わせたものを後任者がまとめあげた。
背の高いエンジンを使わなくてはならない制約のなか、スポーツカーにありがちなボンネットが長くキャビンが短い形式にまとめ上げた。
また、フロントフェンダー先端に複雑な絞込みをせず開放末端にし、別パーツとして樹脂製ヘッドランプベゼルを用意しコストダウンとスタイルの両立を果している。このデザインは後のモデルに至るまでフェアレディZのアイディンティティとして踏襲されている。
「Z」のスペックは当時としては素晴らしいものであり、軽量なモノコックボディに、前後輪ともストラット式サスペンションによる四輪独立懸架を備え、市場で先行するジャガー・Eタイプやポルシェ911などに肉薄した。
主力エンジンは独自開発されたわけではなく、鋳鉄ブロックを持つ重量級の実用型量産SOHC(1本のカムシャフトがシリンダーヘッドに置かれたエンジン)のL型・水冷直列6気筒を搭載した。高回転エンジンではなかったが、実用面では低速域からのトルクに富んでおり、大排気量アメリカ車同様に扱いやすく、信頼性も高かった。
北米向けのL24エンジンを搭載した2.4Lモデルのカタログスペックは最高120 mphで、相応に速いが決して俊敏ではなく、割と平凡なエンジンでありこれよりもスペックがよい欧州製高級GTを今一歩凌駕するまでには至らなかったものの、スポーツカーをも日常の足として気軽に使用し、時には自らエンジン回りをメンテナンスすることも厭わないアメリカ人たちのニーズには合致していた。当時の高級車であるジャガーやポルシェの高性能だが複雑なパワーユニットに比して、単純な設計のおかげで手荒な取り扱いにも耐え、また整備も容易であった。この面では「量産エンジンをチューニングして搭載」していたかつてのイギリス製スポーツカーに近いものとなった。
日本国内における当時の新車販売価格が廉価版の「Z」が84万円、「Z-L」が105万円とスポーツカーとしては比較的安価であった。
しかし「432」が182万円、後に追加された「240ZG」が150万円で、当時の価格にしては高かったものの、爆発的にヒットした。
設計の際前部に向かって低くなっていくスタイリングにこだわったため、全高の高いL型エンジンの前方部分がボンネットに干渉し、やむなくボンネットの形状を変更したため、真中が盛り上がるという特殊な形状になったという逸話がある。
初期モデルにある「432」とは、「4バルブ・3キャブレター・2カムシャフト」の意であり、搭載されたS20型エンジンの構成に由来する。
このモデルは西部警察や大都会といった日産自動車が提供・協賛した数多くのドラマや映画などのカーチェイスシーンで(味方側の車として)使用された。
この車種はアメリカにおいてはその需要のマッチにより「ダッツン・ズィー」の愛称で親しまれ、日産自動車の輸出モデルの総称でもある「DATSUN」の名を広めることに一役買ったとされている。