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falloutシリーズのパワードスーツ→T-60(fallout)


開発経緯編集

ソ連の軽戦車は、偵察用の水陸両用戦車と歩兵支援用の軽戦車の2タイプが存在した。

偵察用に開発されたT-40は、1941年6月のドイツ軍のソ連侵攻に合わせて増産のため水陸両用機能を廃止したT-40Sが製造され、さらに9月には武装を20mm機関砲に強化したT-30が制式採用されたものの、T-30はT-40Sの転輪を鋳造製のものに交換し、スクリュー取り付け部をオミットしただけで車体のデザインは水上浮行を意識した船型車体のままだった。

そこで第37工場設計局のN.A.アストロフ主任技師は、新たに陸上専用に設計された偵察用軽戦車を試作した。


開発編集

試作軽戦車はT-40のシャーシをベースとし圧延鋼板による溶接・リベット止め併用組み立て方式を採用していた。

車内容量を絞り込むことで最大装甲厚が14mmから25mmに向上したが、車重5.8tとT-40とほぼ同じである。エンジンはGAZ-11(85hp)からGAZ-202(75hp)になったが最大速度は44km/hと変わらなかった。武装は20mmTNSh機関砲を装備した。

1941年10月に『T-60軽戦車』として制式採用された。


生産編集

本車が生産を開始したのはタイフーン作戦の頃で、モスクワ市をめがけドイツ軍が迫っていた。前線では1輌でも多くの戦車が求められ、第37工場はウラルへの疎開ギリギリまで生産準備が進められ、第38工場、第264工場でも生産することとなった。

1941年12月から1942年の秋までに6045輌が生産された。


実戦編集

偵察任務を目的としたT-60もT-34KV-1等の数が揃うまでの時間稼ぎのため、レンドリースで送られてきたイギリス戦車と共に次々と前線に投入され、1942年1月のドイツ軍の戦闘報告に出現が記載されている。

本来は偵察用の戦車でありながらタンクデサントと共に攻撃任務に用いられたことから容易に撃破され、戦車兵たちから「二人兄弟の墓」という仇名がつけられてしまった。

鹵獲したドイツ軍も扱いに苦慮していたようで、「華奢で戦力としての価値はない」、「使い道が限られる」といった評価が確認できる。武装や砲塔を撤去して牽引車として用いられた事例がある。

一方で1943年1月の第5号パショーロクの戦いで、本車に搭乗したディミトリー・オサーチュク中尉とイヴァン・マカレンコフ曹長は敵III号戦車を友軍の野砲陣地におびき寄せ、撃破に貢献したことからソ連邦英雄の称号を得ている。

ブラウ作戦では草むらに隠れてドイツ軍の歩兵部隊を強襲し大損害を与えたとの記録も残されている。


登場作品編集

ソ連の軽戦車として登場。

ソ連の軽戦車として登場。


関連タグ編集

軽戦車 T-70 T-30

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