概要
1844年3月18日、ロシア帝国ノヴゴロド近郊のティフヴィンの軍人貴族の家庭に生まれる。
幼少より楽才を顕し、12歳でサンクトペテルブルクの海軍兵学校に入学。海外遠征を経験した。
1859年からピアノを始め、1861年にミリイ・バラキレフと出会ったのを機に本格的に作曲に打ち込むようになる。またバラキレフとの出会いによって、後に「ロシア五人組」と呼ばれる他の作曲家とも面識を得た。
海軍在籍中に作曲した『交響曲第1番』は1865年の初演で好評を博し、「ロシア人による前代未聞の交響曲」と評された。
作曲についてはほぼ独学か「五人組」の仲間内での集団学習のみだったが、1871年にペテルブルク音楽院から作曲と管弦楽法の教授に任命される。
翌1872年には作曲家・ピアニストのナジェージダ・プルゴリトと結婚。
音楽院時代の初期は和声法や対位法について勉強し、初期作品の改訂の契機となった。
オペラ『五月の夜』、『雪娘』などで成功を収めるがその後はスランプに陥り、編曲やモデスト・ムソルグスキー作品の補筆・出版、和声法の教科書の執筆などの活動を行う。
1883年から1894年まで宗務局でバラキレフの助手として活動。ロシア正教の奉神礼(典礼)音楽について研究する機会を得る。指揮者としてもロシア交響楽演奏会の指導をしたほか外国でも演奏活動を行った。
『スペイン奇想曲』や『シェヘラザード』、『ロシアの復活祭』などの管弦楽曲はこの時期に書かれたものである。
リヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』に衝撃を受け、以後の作品はほとんどがオペラとなった。
貴族階級の出身だったがロシア帝国の近代化の立ち遅れには否定的であり、学生による革命運動にも同情的であった。1905年に政府批判を行ったのを機に教授職を解かれるが、これが口火となり彼を慕う同僚たちが次々と辞職する騒ぎを引き起こし、最終的に復職にこぎつけた。
しかしその後も政府との溝は埋まらず、遺作となった『金鵄』は反体制的とみなされ初演は死後の1909年となった。
華やかながらも客観的で簡潔な作風とされ、ロシア民謡・文学などを題材とした作品も多い。