概要
1333年に後醍醐天皇の蜂起により、足利尊氏が鎌倉幕府を打倒する元弘の乱が起きる。
これにより鎌倉幕府は滅亡し、1333年から1336年までの間、後醍醐天皇が直接政治を執り行うようになる。
これを建武の新政という。
通説では、後醍醐天皇は武家に対する恩賞を軽んじ、これが為に全国の武士に不満が生じ、後に中先代の乱を起こされたとされるが、新説ではむしろ武家を重視していたが、単純に恩賞が出るのが遅れてしまい、それが武士の不満に繋がったのでは?と提唱されている。
後醍醐天皇の政策
- 征夷大将軍の任命、鎮守府将軍の設置‥軍功があった足利高氏対策に護良親王を征夷大将軍とし、鎌倉幕府残党対策として北畠親房・顕家を陸奥鎮守府に、天皇の子・成良親王、足利尊氏の弟・直義を鎌倉鎮守府に派遣。
- その一方で足利高氏には、天皇の偏諱「尊治」から「尊」を与え、「尊氏」と名乗らせる。
- 鎌倉幕府が定めた「御成敗式目」の廃止‥鎌倉幕府が定めた「御恩と奉公」は一旦廃止され、武家の所領は国司が改めて定める。が、所領所有権をめぐって訴訟が乱発することになり、各地で混乱が起こった。
- 記録荘園券契所、恩賞方の設置‥公家や寺社が所有していた荘園を優先的に復活させる一方、鎌倉幕府打倒に功があった武家や武士に対する恩賞が少なく、不公平感が残った。
- 新御所造営のための税の徴収‥北条氏が幕政を運営をしていたころよりも税が重く、新御所造営のための増税ということもあって不満が高まった。
- 徳政令の実施‥朝廷や公家、武家の借金をなかったことにする政策、鎌倉時代にもあったが、当然、庶民からの評判が悪い。
これらの政策の失敗で、朝廷の評判はがた落ち、武家や武士だけなく、公家のなかにも不満を表すものが出るありさまとなった。