Bf109
めっさーしゅみっとひゃくきゅう
サラブレッドの血統
ドイツ、メッサーシュミットが連絡機Bf108を基に開発した戦闘機。
一撃離脱重視の戦闘機であり、ドイツ空軍の主力として活躍した。
急降下、ロール性能(旋回切り替えしの良さ)に優れ、もちろん一撃離脱に向いている。しかし当時の主流はドッグファイトであり、長らく不向きな使い方をされていた。数多くのエースパイロットが本機に搭乗している。
イスパノスイザに倣い、プロペラ回転軸の中に武装を仕込んだ『モーターカノン』が特徴的である。しかし初期は技術的問題を克服できず機首上面や翼内に武装を搭載しており、F型以降にようやく実用化された。ただし、これによって機関砲の門数は2門から1門に減少することとなったため、火力に勝るE型派(アドルフ・ガーランドなど)と飛行性能に優れるF型派(ギュンター・ラルなど)の間で、俗に『F型論争』と呼ばれる空軍を真っ二つに分けた論争が起こることとなった。
モーターカノンの装備は過給器の性能向上の足枷となり、DB系エンジンはマーリンやグリフォンに対し高高度性能でハンデを負う事になった。
結局のところ機関砲の搭載法としてモーターカノンはあまり流行らず、主翼に装備する方式が主流となっていった。火力の集中とのいいとこどりを狙いプロペラ同調装置をつけて機首に搭載した例も存在する。(Fw190、La-5、三式戦闘機など)
初期型(~D型)はユンカースJumo210エンジンだったが、E型からはダイムラーベンツ社製DB601型液冷エンジンに変更される。これは高性能である反面、余りにも構造が複雑過ぎて、第二次世界大戦後期に出力向上が難しい原因になった。
競合機
本機はハインケルのHe112との競作で、パイロット達にはこちらの方が好評だった。ところがハインケルは「反ナチ」であり、そこが嫌われて短期間の採用になったとされている。対するメッサーシュミットはナチス党員で、戦争中は何かにつけ優遇されている。
ただし、DB601(あるいはJumo211)搭載を見据えて設計したBf109に対し、He112はJumo210にマッチングさせた機体であり、エンジンの変更とそれによる性能向上の余裕はなかった。また、He112は整備や調整に非常な手間がかかった。研究機や実験機としては良くても、このうえ実戦機として求められる部分を加えると新型エンジンであるDB601の完成とともにBf109に移行したのは“当初の計画通り”であったと言える。He112は、日本で言えば九六式艦上戦闘機、九七式戦闘機と同世代の、戦間期世代の戦闘機に過ぎなかった。
誇り高き戦い
Bf109VからD型まではスペイン内乱やポーランド侵攻に投入されている。
E型はイギリス侵攻作戦「バトル・オブ・ブリテン」に投入され、ロンドンやドーバー海峡の上空でハリケーンやスピットファイアを相手に死闘を繰り広げた。
バトル・オブ・ブリテン後期やアフリカ、ロシア侵攻にはF型が投入され、連合軍と戦っている。シリーズ決定版がG型で、大戦後期の主力機となった。爆撃機迎撃の為に火力を増強する改造キットがいくつも開発され、中でも大型対空ロケット弾などはアメリカにも強い影響を与えた。量産最終型はK型で、2段2速過給器付きDB605Lエンジンの出力は2,000hpに達し、30mm機関砲1門と15mm機銃2丁を装備した。
限界
F型の段階で、「基礎設計はスピットファイアより前」という事実がボディブローのように効いてきた。スピットファイアがロールスロイス『グリフォン』(2000馬力超級)にもマッチングできたのに対し、Bf109は次世代エンジン(DB603・Jumo213)を搭載できなかった。
このため専用にサイズを切り詰めた(コンパクトに抑えた)DB605が開発された。
それでもスピットファイアが本機との性能競争において、マーリン60を搭載したMk.IX(1942年)でようやく引き離す事ができた点を鑑みれば、基礎設計に関して本機が優れていたことが伺われる。
『納屋の戸』
空軍にもBf109への不満はあり、それらの点を改善するよう再三要請していた。
空軍技術局長が航続力の増加を求めたところ、設計者のヴィリー・メッサーシュミット博士は
「あなた方の望むものは、速い戦闘機なのか、それともただの納屋の戸なのか」
と言い返した。
後日、メッサーシュミットは件の技術局長と共に防空壕に逃げ込む羽目になり、技術局長は機銃掃射をかけるP-47を指差し、「ほら、そこにきみの言った納屋の戸が飛んでいるぞ」とやり返したという。
ヴィリー・メッサーシュミット博士の持論は「戦闘機は飛行性能を極限まで高めるため、可能な限りコンパクトに切り詰めた機体に、高出力なエンジンを搭載すべき」というもので、Bf109はそれに沿って開発されていた。燃料搭載量を増やせば、大きい上に重くて動かしにくい『納屋の戸』になってしまい、戦闘機として使い物にならなくなってしまう、と考えていたのだ。
飛行性能を高めるために機体を小型軽量化するという手法は、イギリスのスピットファイアやソ連のYak-3など、他国でも試みられていたが、いずれの機体も少ない機内容積に伴う航続距離不足という共通の短所を抱えている(もっとも、これらの機体の主戦場は広大な大陸の上であったため、ある程度目をつむることができる要素ではあったのだが)。
しかしながら、技術の進歩に伴い、燃料や兵装をたっぷり積める重量級の機体に、さらにパワフルなエンジンを搭載した戦闘機(P-47、タイフーンなど)が製造されるようになると、こういった『納屋の戸』たちに使い勝手の良さで後れをとるようになってしまう。
ドイツにおいても、同様の性質を備えた重量級戦闘機としてFw190が正式採用されており、ほぼ制空戦闘一本槍だったBf109に対して、迎撃から戦闘爆撃までこなす多芸ぶりを見せつけた。さらに後には同盟国の日本も、四式戦闘機や紫電改といった同様の重量級戦闘機を生み出している。
結局、レシプロ戦闘機時代の末期においては、メッサーシュミット博士の言うところの『納屋の戸』である重量級パワーファイターが、世界の戦闘機の主流となっていくのであった(最後まで重量級単発戦闘機を開発しなかったのはソ連やイタリア程度だった)。
生産・輸出
総生産数は約30,500機(修理で再生した分も合算)にも達し、戦闘機の史上最多生産数である。
ドイツ以外にもスペイン、ルーマニア、チェコスロバキア、戦前はユーゴスラビアでも生産された。これらライセンス生産を許された国々、さらにブルガリア、ハンガリー、イタリア、クロアチア、フィンランド、スペイン、スイスといった装備国の一部も第二次世界大戦終結後しばらくは運用を続けている。
フィンランド
冬戦争後半にフィンランド空軍の主力機としてG型が運用された。
日本のネット界隈で「オーラバトラー」「聖戦士」と評される、無傷の撃墜王エイノ・イルマリ・ユーティライネンも停戦までの4ヶ月間をBf109で戦い抜いている。
当時のフィンランド空軍では「幸せの青いスワスチカ」ことハカリスティが所属機の国籍マークとして使用されており、G型にも例外なく描かれていた。
スペイン
スピットファイアのエンジンを装備して改良され、イスパノHA1112「ブチョン(鳩)」と呼ばれた。
映画出演
こちらは映画『空軍大戦略』(1969)に出演しており、もちろんBf109役としてである。(ただしスペイン空軍が保有していた物で機首部分の形状が通常の物とは違う)
チェコスロバキア
戦後も生産が続けられ、「S-99」として生産が続けられていた。しかしDB605エンジンの生産工場が火災で焼失し、代替品としてJumo211エンジンがあてがわれることになる。このJumo211装備型は新しく「S-199」と名づけられ、生産はさらに続けられた。
Jumo211はDB601と同世代のエンジンであり、モーターカノンを搭載する中空軸プロペラシャフトを採用していない点を除けば若干特製が異なるものの同等のエンジンである(日本で言えば三菱『瑞星』と中島『栄』の関係のようなもの)。Ju87やJu88などの爆撃機に使われたが、拡大発展型のJumo213はあのTa152Hのエンジンとしてサーズライヒ・ルフトヴァッヘの最後を飾っている。
問題はプロペラ。戦闘機用の新しいプロペラを開発する余裕がなかったので大カウンタートルクの多発重爆用プロペラをそのまま流用したのだ。
当然、機体バランスは見る影もなく悪化し、「水平飛行すら難しい」と評されている。エンジンが重い上に、ムリヤリ改造したせいでバランスも悪く、操縦の反応も鈍い上に、Bf109独特の特性として、車輪の幅も狭いので離着陸は困難を極めた。一応、創成期のイスラエルで主力戦闘機として活躍したが、パイロットの評判はすこぶる悪かった。
「日の丸DB」
日本でも、1941年に旧日本陸軍が実験機としてBf109E3を3機輸入している。
日本到着後、岐阜県の各務原飛行場において飛行テストが行われた。
(現航空自衛隊岐阜基地)
空戦テストの相手は中島 キ44「鍾馗」である。テスト結果でキ44の優秀性が見直され、正式採用が決まった。
Bf109Eに搭載されたエンジン(DB601)は三式戦闘機にライセンス生産されて装備、搭載されているMG151/20(通称「マウザー砲」)ものちに装備された。
(ただし輸入品なので数量限定)
「日の丸DB」その2
ちなみに、このエンジンは愛知航空機で「アツタ二一型」として海軍向けに生産され、空技廠D4Y艦上爆撃機「彗星」にも採用された。
だが必要な材料の一部(既に貴重品となっていたニッケル)の使用は控えられており、劣る工作精度・整備員の不慣れにより故障が多く、全般的には性能も原型より劣っていた。ただクランクシャフトの焼付時間を超長時間化するなどの改良も加えた結果、稼働率はアツタの方が良くなった。
また途中から出力向上と補器類の国内設計品化による生産性の向上を図った、「アツタ三二型」にマイナーチェンジ。シリンダーブロックはそのままだが原型のDB601より300馬力ほど出力が増強された。
アツタの現場トラブルは日本が空冷ばかり採用していたため、液冷エンジンに熟知しているものが少なく、整備に事欠いたというのが大部分を占める。1944年に編成された「芙蓉部隊」では人員教育を重視し、水冷彗星に特化した整備員の育成に努めた結果、70%以上の稼働率を確保していた。
だが、やはり液冷エンジンというものはトラブルばかりの不安定品として認識されたらしく、後継には空冷エンジンに立ち返った『誉』(ハ45)が採用されている。
本機が原典となった創作品
『ストライクウィッチーズ』に登場するミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ、エーリカ・ハルトマン、ハンナ・ユスティーナ・マルセイユ、ライーサ・ペットゲン、エイラ・イルマタル・ユーティライネン、ニッカ・エドワーディン・カタヤイネン等、多数の
ウィッチが使用するストライカーユニット「メッサーシャルフ Bf109」の元ネタでもある