概要
紫電(紫電一一型)
ベースとなった紫電一一型は、水上戦闘機強風をベースに開発された陸上戦闘機である。飛行艇メーカーの川西飛行機(現・新明和工業)が水上戦闘機の強風を陸上戦闘化する案を海軍へ持ち込んだところ、烈風の開発が遅延してることに業を煮やしていた海軍から歓迎されて昭和17年に開発が始まった。
完成を急いでなるべく強風の機体を流用するつもりでいたが、実際には新しい発動機「誉」へ換装したことで大幅な変更が必要になり、実際に流用できたのは操縦席付近だけになった。
しかし、当の川西は陸上戦闘機に関して全くの素人であったため、それが設計の未成熟さに表れてしまった。主翼部分は中翼形式をそのまま引き継いでしまったがために下方視界は悪く、さらに主脚は長くなりすぎた結果、一度縮めてから折り畳むという複雑で壊れやすいものになる始末で、ベテランパイロットでも安心して着陸出来なかったという。
さらに誉エンジンの不調も相まって性能も計画値にとても及ばなかった。特に最高速度は、計画では時速650kmのところ、僅かに時速580km程度という当時の零戦現用モデルより僅か20km程度しか速くなかった。
とはいえ、紫電が完成した時期はF6F、F4U、P-51ら新鋭機がどんどん現れ、相対的に零式艦上戦闘機の陳腐化が素人目にも見えて表れており、連戦連敗、戦線はどんどん縮小する一方。当時の零戦最新型の零戦五二型よりはマシな性能を持った紫電一一型は約1000機も量産される事になった。
当然ながら実戦の場でも(主に主脚絡みの)トラブルの連続であり、初代343空戦闘301隊ではある時期3日に1機の割合で脚部故障により失われる機体が出たこともあったという。
ほとんど目ぼしい戦果も挙げられず、挙句パイロットからも鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機と酷評されてしまう戦闘機となってしまった。
零戦より防弾性能が向上した点や、頑丈なフレームを持つ局地戦闘機である故に機銃の命中率が良い点など、いい部分もあり、B-29やP-51と戦って昭和20年5月29日には2機、7月8日には4機撃墜する戦果をあげている。
本命であった烈風が決戦と目論むサイパンの戦い(マリアナ沖海戦)に間に合わないことが判明すると、紫電をサイパンの戦いでの主力とする事に決定、増産を決定した。だが、川西航空機の生産力不足でこれも頓挫。
結果、旧式化した零戦五二型で挑む羽目になった日本海軍航空隊は練度の低下と相なって、マリアナ沖海戦に大敗北を喫してしまい、本機の存在意義も薄れていった。
紫電改へ
その一方で、これらの欠点を改善するために海軍は昭和18年、紫電が完成したその日に設計の改良を川西に指示し、翌年の昭和19年に再設計機体が完成し、評価試験が行われ紫電改(紫電二一型)の名称で正式採用された。
どんな風に改良されたかというと…
低翼配置のオーソドックスなデザインとなったことで、下方視界が改善されたのはもちろん、トラブルの多かった主脚を通常のものにでき、胴体も細く洗練され幾分スマートになった。また、強風のものを改修した自動空戦フラップなどの装置が採用され錬度の低いパイロットでも操縦がある程度簡便なようになっていたようである。
性能も原型機の紫電よりも飛躍的に向上(紫電改の最高速度は時速594kmがよく知られているが、それは学徒動員や勤労奉仕の工員が作った粗悪品のエンジンでの、しかも運転制限下での数値である。まだ熟練工が作っていた誉エンジンの全力運転での試作機の段階では時速630kmを記録したという記録が残されている。量産機もエンジンが快調であれば、高速で鳴らしたF4Uに対抗できる速度が出たという)し、機体のトラブルが減って実用性は大きく向上した。
また米軍パイロットの証言ではP-51と同等の速度が出るため時速約680㎞と想定していたり、日本軍パイロットも時速600㎞以上を頻繁に出していたという証言もあり、近年では620~650㎞という説も出始めている。
最もこれは日米でカタログスペックの求め方が違っていたことに起因すると思われる。日本軍機は武装した状態、米軍機は武装や燃料を減らした状態でスペックを求めていたため、日本軍機は言うなればカタログスペック以上の性能を発揮したという逸話は多い。
悔やまれるのは頭数の少なさ。生産開始が本土空襲の本格化した昭和19年末ということもあり、終戦までに400機程度しか生産されなかった。零戦の10,000機余、同時期の陸軍戦闘機“疾風”の3,500機と比べても明らかに見劣りする数である。
加えて、前述の粗悪で気難しい誉エンジンに起因する稼働率の低下、後述の熟練パイロットの払底なども考慮すれば、戦局の挽回どころか、戦力としてもはなはだ頼りない数字である。敵側は、既に爆撃機ですら一桁以上多い数を造り出していたのだ。
だが、この期に及んでも烈風が量産できないお涙頂戴な状況の中、高性能化が顕著であった連合軍の次世代戦闘機と対等に戦える実力を持つ紫電改は、実戦部隊の若手パイロットや新鋭機を欲した激戦区帰りのエースパイロットに真の零戦の後継機として大いに歓迎された。
切迫した戦局の中で若手パイロット達は紫電改乗りは羨望の眼差しで見られた。(例として、厚木基地の搭乗員は陳腐化した零戦を嫌い、最新型である本機を求めていたとの事)上層部も連戦連敗で『もはや零戦の時代に非ず!烈風はもう絶望的!こうなれば紫電改じゃー!!』と決断し、紫電改は烈風の地位を奪う形で次期主力機に選定。
「剣部隊」の異名を持つ第343海軍航空隊(二代目)や横須賀航空隊などで集中的に使用され戦果を残している。
最初こそ躓いたが、川西の見る目は決して間違ってはいなかったのである。そして、1946年に完成予定とされた次期主力機は本機の更なる発展型であった。つまり、この時点で川西航空機は三菱重工業を差し置いて、主力機メーカーとしての地位にあったと言っても過言ではない。
なお、少ないながらバリエーションも開発され、エンジンを三菱重工業製の「ハ43」に換えた機体などがある。試作のみだが艦上戦闘機に改造された試製紫電改二は実際に空母信濃への着艦実験を行っている。
……この時期の日本軍兵器の多くに当てはまる言葉ではあるが、紫電改は「遅すぎた天才」だったのである。
現存機
アメリカに三機(いずれ元々は接収機)、日本に一機現存している。
アメリカ
- スミソニアン博物館(国立航空宇宙博物館)
- 国立海軍航空博物館
- アメリカ空軍博物館
いずれもレストアされて状態は良い。
日本
- 南レク馬瀬山公園内 紫電改展示館(愛媛県南宇和郡愛南町)
国内唯一の現存機である。
1978年愛媛県南宇和郡城辺町(当時。現在の愛媛県南宇和郡愛南町)の久良湾の海底から引き上げたものを修復した。ただし、引き上げ時の原形を保つ程度の修復および塗装のためプロペラが曲がったままなど完全な姿ではない。
元々は第343海軍航空隊所属機の未帰還機のうちの一機で、引き上げた際の状態は機首をのぞいて良かった。
余談
ちばてつやが週刊少年マガジンに連載した漫画『紫電改のタカ』により一気に知名度が上昇し、戦記物を始めとした創作物に登場する機会も増えた。
『紫電改のマキ』という野上武志による萌え路線の漫画も作られた。
『機動戦士ガンダム』に登場するカイ・シデンは、本機の名前をひっくり返したのが名前の由来である。
『ストライクウィッチーズ』に登場する坂本美緒、竹井醇子、管野直枝、服部静夏、小村定恵、雁淵孝美のストライカーユニット「山西航空機 紫電改」の元ネタでもある。
ムーンクラフト・童夢の手によるレーシングカー、紫電の改修版として紫電改がある。
(由来はもちろん同機である)
カネボウ化粧品から同名の毛生え薬(薬用紫電改)が発売された。
(名称の由来は同機からきている)
かつては阪神甲子園球場のバックネットの看板広告として、阪神タイガース戦の中継などではおなじみの存在だった。
なお戦前の川西航空機の工場はすぐ至近で、戦後は球場と同じ阪神系列の阪神パーク(現在は三井グループ運営の「ららぽ-と甲子園」)になるなど、縁は深い。
『艦隊これくしょん』では上述した艦載機型を使用する事ができる。また、かつての紫電改の開発者の1人がこれをプレイしており、電子の戦場で紫電改を活躍させているそうである。
ちなみに上記の開発者の一人と言う方は「熟練部隊が搭乗したと言う設定の零戦が紫電改より強かった」という理由で引退を表明したらしい。
しかし、レーダーもミサイルも無い時代の空戦では性能よりも戦術や個人の錬度が物を言う事が多く、低性能機が高性能機を撃退した例は多い(フィンランド空軍のF2Aやミサイルを使用しない模擬戦でのF-104によるF-15への勝利など)。中でも最も極端な例が空の魔王であることは論を待たない。
日本の場合、零戦で実戦経験を積んだ熟練パイロットを各所で使い潰し、紫電改が配備される頃にはその腕前を維持できなかったという運用面の問題も見えてくる。
熟練者が乗れば単純な性能差をひっくり返すなど戦場では日常茶飯事であり(そして逆に高性能を未熟な操縦者が生かし切れないことも多々あり)、軍用機にすら限らなかった。
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