※この記事では、1991年から2004年までの球団の歴史について記述する。
成績
年 | 順位 | 監督 |
---|---|---|
1991年 | 3位 | 土井正三 |
1992年 | 3位 | 土井正三 |
1993年 | 3位 | 土井正三 |
1994年 | 2位 | 仰木彬 |
1995年 | 1位 | 仰木彬 |
1996年 | 1位 | 仰木彬 |
1997年 | 2位 | 仰木彬 |
1998年 | 3位※ | 仰木彬 |
1999年 | 3位 | 仰木彬 |
2000年 | 4位 | 仰木彬 |
2001年 | 4位 | 仰木彬 |
2002年 | 6位 | 石毛宏典 |
2003年 | 6位 | 石毛宏典→レオン・リー |
2004年 | 6位 | 伊原春樹 |
※1998年は福岡ダイエーホークスと同率3位。
1990年代
土井監督時代
1990年オフ、阪急時代から10年間に渡って指揮を執った上田利治監督が辞任。後任には兵庫県出身のV9戦士土井正三が監督に就任した。ドラフトでは長谷川滋利を獲得する。
チーム名を「ブレーブス」から「ブルーウェーブ」に変更して、新体制で臨んだ1991年は3位。
1991年のドラフトでは1位で田口壮、4位で鈴木一朗(イチロー)を獲得する。
土井監督時代の3年間はすべてAクラスの3位だったが、優勝争いに絡むことが出来なかった。
仰木監督時代
土井監督の後任には、1992年まで近鉄を指揮していた仰木彬が就任する。
そして、プロ3年目の鈴木一朗を「イチロー」という登録名に変更し、レギュラーへ抜擢する。
その期待に応えたイチローは、プロ野球史上初のシーズン200安打を達成。最終的に安打数を210に伸ばした。(この記録は2010年にマット・マートンが214安打で16年ぶりに更新され、2015年には秋山翔吾が216安打を放っている。)
翌1995年は、1月17日に阪神・淡路大震災が発生。オリックスの選手やスタッフにも被災者が出た。
チームスローガンを「がんばろうKOBE」にしたこの年は、阪急時代の1984年以来11年ぶり、オリックスになってからは初となるリーグ優勝を成し遂げた。
イチローは前年の勢いそのままに、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率といったタイトルを獲得し、文句なしでパリーグMVPに輝いた。
日本シリーズでは野村克也監督率いるヤクルトスワローズと対戦するも、イチローを封じられ、1勝4敗で敗れた。
1996年も2年連続でリーグ優勝を成し遂げ、日本シリーズでは長嶋茂雄監督率いる読売ジャイアンツを4勝1敗で破り、阪急時代の1977年以来(この時の相手も長嶋率いる巨人だった。)、19年ぶりとなる日本一を達成した。
1997年以降もAクラスをキープする。
2000年代
2000年は阪急最終年の1988年以来、オリックスになってから初のBクラスとなる4位に転落。この年のオフにイチローがシアトル・マリナーズに移籍する。翌2001年もイチローの穴を埋められず4位となり、8年間指揮を執った仰木監督が退任する。田口もイチローと同じくメジャーに挑戦した。
2002年は、西武黄金時代のキャプテンだった石毛宏典が就任。しかし極端な貧打に泣かされ、これまで唯一の最下位だった1963年以来39年ぶりとなる最下位に転落してしまう。
さらに2003年には、今度は投手陣が完全に崩壊してしまう。この年に優勝したダイエーには8月1日に1-29という大量失点で敗北したことに代表されるように、1年間の総失点はなんと927にも上った。
開幕からわずか1ヵ月後の4月23日に石毛が解任され、打撃コーチだったレオン・リーが代行として指揮するも、結局上記の大量失点の責任を取り辞任した。
2004年は前年まで西武を率いた伊原春樹を招くも、投手陣の壊滅は治らず、3年連続の最下位になった。
そしてこの年に大阪近鉄バファローズとの合併が報じられ、翌2005年からは、オリックス・バファローズとして新たなスタートを切ることとなった。
2016年に後藤光尊(2002年入団)が引退したことにより、「ブルーウェーブ」に在籍したことのある現役選手は、イチロー(マイアミ・マーリンズ所属)ただ1人となった。
関連動画
↓球団歌「ビクトリー・マーチ」
関連イラスト
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