文化12年10月29日(1815年11月29日) - 安政7年3月3日(1860年3月24日)
概要
彦根藩・第13代藩主・井伊直中の十四男として生まれる。戦国時代の徳川四天王の一人、井伊直政の子孫。井伊家は譜代大名の中でも大きな領地を持つ家系で、格式が高すぎて老中にはなれなかったが、大老をときどき出している名門だった。しかし十四男では井伊家の跡も継げず、養子に出る先も一応はあったのだが流れ、父の死後は30歳過ぎまで学問・武術・芸能に力を注いでいた。
兄・井伊直亮の死後、彦根藩の第15代藩主となり、後に幕末期の江戸幕府にて大老を務めた。
将軍継嗣問題
第13代将軍・徳川家定の後継を巡り、一橋慶喜を推す一橋派と紀州藩主・徳川慶福(徳川家茂)を推す南紀派が激しく対立。この時期、徳川家定に嫁いだのが島津斉彬の養女・篤姫である。
その最中、阿部正弘、島津斉彬が死去したことで、家定から慶喜が嫌われていたこともあり、南紀派が主導権を握り井伊直弼が大老に就任。家定の死後、徳川家茂が第14代将軍となる。
一橋派 | 老中首座・阿部正弘(備後福山藩主)、前水戸藩主・徳川斉昭(一橋派筆頭、慶喜の父)、越前藩主・松平春嶽、尾張藩主・徳川慶勝、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂ほか |
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南紀派 | 第13代将軍・徳川家定、彦根藩主・井伊直弼(南紀派筆頭)、鯖江藩主・間部詮勝(老中)などの譜代大名、大奥ほか |
これを見るとおり、一橋派の大半が将軍家からは「よそ者」である親藩や外様であり、家としての相続について発言力が弱かったといえる。
欧米諸国との条約締結
開国か攘夷かで揺れる日本に対し、アメリカ合衆国総領事ハリスの圧力と幕府内の開国派に押される形で、外国との交渉に全面反対していた孝明天皇の勅許がないまま日米修好通商条約に調印した。
安政の五ヶ国条約と呼ばれ、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5カ国と締結。関税自主権がなく、外国人への裁判権を認めていたことから、不平等条約と言われる。
直弼としては「外交は幕府が認められた権限だから」として、どうせ賛成してくれない孝明天皇の賛同を求めなかったのだろうが、天皇の許可無く開国したことで朝廷と幕府の関係は悪化。一橋派からも批判を受ける。
ちなみにこの途中、南紀派の後押しと家定の推薦により、直弼は大老に就任した。
安政の大獄
吉田松陰など過激活動家の粛清を行うが、処罰を受けた者の半数以上は一橋派の者であることから、事実上の一橋派の弾圧だった。一橋派の大名・公卿・彼らの家臣達・志士(活動家)にまでおよび、連座した者は100人以上にのぼった。
その頃の一橋派
巻き返しを図ろうとする一橋派は京都で運動を行い、幕府の無断調印に激怒した孝明天皇が水戸藩に対して、勅書(戊午の密勅)を下賜する事件が起こる。幕府を通さず臣下である藩への直接降下されるという前例のないことだった。
水戸藩(斉昭)が外様大名や浪士と結託し、朝廷を利用して幕府を転覆させようとしているとの疑いを強め、水戸藩に対して勅書を幕府に返納するよう命じる。一方で、勅書降下や慶喜の将軍擁立運動の関係者の処罰を始めた。
水戸藩
一橋派・徳川斉昭が処罰を受けて以降、藩内では、「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革を支持してきた派)と、「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しくなっていく。桜田門外の変は尊王攘夷派の浪士たちによって引き起こされた。
薩摩藩
一橋派・島津斉彬は井伊に反発し、藩兵5000人を率いて上洛することを計画したが、同年7月に鹿児島で急死。
水戸藩と共同して大老井伊直弼暗殺を計画したが、藩主と藩主の父・島津久光が書状を届けて集団脱藩を思い止まらせた。誠忠組結成に至る。
土佐藩
一橋派・山内容堂が隠居させられ、謹慎を命じられると、藩内で幕府に対する反感と山内容堂の名誉回復に対する機運が高まり、武市瑞山らによって土佐勤王党結成に至る。
桜田門外の変
独裁政治に対する反発から攘夷派などの怨みを買い、江戸城に登城する途中、桜田門外において水戸脱藩浪士17名と、薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、暗殺された。行列の武士は襲撃に対して無警戒であったうえに、直弼は武術をたしなんでいたがピストルで撃たれた弾丸が腰の神経を傷付けて、まともに動けないまま駕籠ごと刺し殺されるという呆気ない最期だったという。
さすがに「大老が白昼堂々殺害された」とは発表できずに、井伊家と幕府はしばらくごまかしてから直弼の死亡を発表している。
その後
攘夷運動、倒幕運動が加熱。京では『天誅』という暗殺事件が多発。天誅の対象者は安政の大獄で弾圧に関わった人物が多かった。
一橋派が復帰。一橋慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就任。
悪化した朝廷と幕府の関係改善(公武合体)の象徴として、家茂の正室に孝明天皇の妹、和宮と家茂の婚姻が認められるが、攘夷の実行と引き換えという条件つきとなる。
井伊家(彦根藩)は息子の井伊直憲が跡を継いだが、領地を一部没収されて、長州戦争でも旧式の部隊が全然役に立たなかったりして、政治上すっかり転落してしまった。彦根藩の弱体化が、会津藩の松平容保を京都の政界に引き込んだ(そして結果として破滅させた)要因の一つとなる。
幕府への反発が強まった彦根藩では、長州戦争後に討幕派の勢力が強くなり、戊辰戦争では初めから反幕府派に味方して、旧幕府側が東から京都を攻撃するのを防ぐ側に回り、その後も積極的に新政府軍の側で戦っている。
人物
- 彦根藩時代は藩政改革を行ない、名君と呼ばれた。
- 17歳から32歳までの部屋住みの時代、多数の趣味に没頭したが、中でも茶の湯では「宗観」の名を持ち、一派を確立するほどだった。さまざまな茶書を研究し、茶人として大成。弟子となった家臣たちと茶会を開いていた。著書「茶湯一会集」巻頭で「一期一会」という言葉にして世の中に広めた。
この間、兄に冷遇されたことで性格が歪んだとも言われる。
登場作品
小説
舟橋聖一:『花の生涯』(1953年)(後にNHK大河ドラマ第一作目に)
吉村昭:『桜田門外ノ変』(1990年)
映画
『桜田門外ノ変』(2010年、演:伊武雅刀)
ドラマ
『徳川慶喜』(1998年、NHK大河ドラマ、演:杉良太郎)
『篤姫』(2008年、NHK大河ドラマ、演:中村梅雀)
『花燃ゆ』(2015年、NHK大河ドラマ、演:高橋英樹)
『西郷どん』(2018年、NHK大河ドラマ、演:佐野史郎)