近代化まで
北畠親房による神皇正統記(南朝の正統性を主張した)が皇国史観の先駆けとされる。神皇正統記には唐土(中国)を始めとした異国の王朝は短命だが、日本の皇室が長命なのを誇る記述があることなど、幕末の尊皇攘夷思想など後世に与えた影響は大きい。
江戸時代に成立した水戸学や国学によって神皇正統記など皇室を中心とした歴史観を訴えた著作や思想は多く現れ、それが討幕の一因へとつながった。なお、その影響で従来は不当とされた南朝は正統、楠木正成は忠臣とされ、対立した北朝とその英雄であった足利尊氏は国賊の汚名を着ることとなった。
戦前における皇国史観
明治維新の直後は皇国史観は思想のひとつに過ぎず、考古学・進化論・唯物論と言った思想は諸子百家の体を為していた。国家神道の影響で過激化したかのように言われることが多いが、実際は神道とその聖典と言うべき記紀神話も広く議論され、批判も自由であった。しかし、帝国大学の久米邦武教授の「神道は祭天の古俗」という論文が不敬罪に当たるとの批判を受け職を追われた事件(明治24年)や、歴史学者津田左右吉氏の記紀神話批判問題(昭和15年)など、統制や弾圧も多かった。その背景には、天皇の権威を強化しようとする政府側の意図や、社会主義体制への危機感があったなど諸説がある。
戦後から現代における皇国史観
戦時中には「日本よい国、きよい国。世界に一つの神の国」「日本よい国、強い国。世界に輝く偉い国」と記された修身の教科書が国定化されるなどナショナリズムの高揚に用いられたことは有名。終戦後は戦争に対する反省から「皇国史観」と言う言葉自体(皇室を有する国と言う点で皇国と言う言葉は存在する)が影を潜めている。