概要
生没年 ?~元弘3年(1333年)5月22日
鎌倉幕府の実権を握る得宗北条氏の被官・長崎光綱を父として生まれ、高綱を名乗る。法名・円喜。得宗・北条貞時、その子北条高時に仕え、安達時顕とともに内管領として事実上の最高権力者として幕政を主導した。子に内管領職を継いだ長崎高資がいる。
長崎氏
出自に謎が多いが、平資盛(平重盛の次男)の曾孫・平盛綱が得宗・北条泰時・経時、時頼に家令として仕えたことに始まり、伊豆国田方郡長崎郷に所領を与えられたことから長崎氏を称したといわれている。盛綱の子(一説には孫)・頼綱も北条時宗・貞時父子に仕え、対立する有力御家人・安達泰盛を滅ぼして実権を握ったが、永仁元年(1293年)4月、貞時により殺害された(平禅門の乱)。頼綱の一族・光盛(一説には弟)はこの乱に巻き込まれることなく滅亡を免れた。円喜は光盛の孫である。
生涯
正安3年(1301年)、執権・北条貞時、連署・大仏宣時が相次いで職を辞して出家、北条師時が執権、一門の長老・北条時村が連署に就任。
嘉元3年(1305年)、得宗・北条貞時のもとで連署を務めていた北条時村が自邸に襲われて殺害され、その犯人として「内ノ執権」と称された実力者・北条宗方が討たれる不可解な事件が起きる(嘉元の乱)。(一説には、貞時が内管領兼侍所所司の役職にあった宗方に時村を討つよう命じたといわれており(「春日若宮神主祐春記」)、現在もその説が有力視されている)
これ以降、貞時は急速に政治に対する意欲を失って遊興にふけるようになり、内管領に就いた高綱ら得宗被官勢力が実権を握るきっかけになったといわれている。
応長元年(1311年)10月に執権・北条師時、11月に得宗・北条貞時が死去し、執権に大仏宗宣が就任。なお、貞時は死にあたって内管領・長崎高綱、秋田城介・安達時顕に嫡男・高時を後見するよう遺言を残した。
正和元年(1312年)6月、執権・大仏宗宣死去、以後、高時が成人するまで北条凞時、北条基時が相次いで執権職に就いた。
正和5年(1316年)7月、北条高時が執権に就任。
文保元年(1317年)頃、内管領職を嫡男・高資に譲り出家するも、幕政に大きな影響力を残す。
正中元年(1324年)9月、後醍醐天皇による倒幕計画が発覚、天皇の側近・日野資朝を佐渡に流罪し、天皇が謝罪文を出すことで事件は終結する(正中の変)。
嘉暦元年(1326年)、執権・北条高時が病を得て出家、後任に一門の長老・金沢貞顕を据えるが、高時の弟・北条泰家がこれに反対して貞顕を殺害するのではないかとの噂が流れ、わずか1か月で辞任、新たに赤橋守時が執権に就任する。
元弘元年(1331年)、内管領・高資の横暴を憎む得宗・高時による「長崎高資・暗殺の謀議」が発覚、高時はその報復を恐れて謀議の関与を否定し、処分を免れた。
元弘2年(1332年)12月、後醍醐天皇による再度の倒幕計画が発覚し、笠置山に籠もるが敗れて隠岐に配流となる。
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の皇子・護良親王が「得宗・北条高時追討」の令旨を発して兵を挙げ、これに楠木正成、赤松円心らが呼応、幕府は反乱鎮圧に北条高家、足利高氏を大将として大軍を派遣、しかし、軍を率いていた高家が討死すると、高氏は朝廷方に寝返って円心らとともに六波羅に襲いかかり、5月7日、六波羅は陥落した。
一方、鎌倉にも高氏の嫡男・千寿王を旗頭とする新田義貞ら朝廷軍が迫り、5月18日、一軍を率いて防戦に赴いた執権・赤橋守時が洲崎で敗れて自害、5月22日、円喜は追いつめられた北条一族、家人、嫡男・高資とともに鎌倉・東勝寺において自害、鎌倉幕府は滅亡した。
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フランキー堺・・・大河ドラマ『太平記』での円喜役。