曖昧さ回避
- ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト。プロイセン王国陸軍の軍人。グナイゼナウとともに参謀本部制度を築き、初代参謀本部総長となった。
- ドイツ帝国海軍のシャルンホルスト級装甲巡洋艦一番艦。第一次世界大戦時、フォークランド沖海戦で姉妹艦グナイゼナウと共に沈没。ゲルハルト・フォン・シャルンホルストに因んで命名された。
- 装甲巡洋艦シャルンホルストの損失後に計画された巡洋戦艦で未成に終わった。計画では常備排水量33,000t、全長227.0m、主砲45口径38cm連装砲4基。
- 2.ドイツ海軍の戦艦。第二次世界大戦で戦没。ゲルハルト・フォン・シャルンホルストに因んで命名された。
- ドイツの大型商船。ゲルハルト・フォン・シャルンホルストに因んで命名された。太平洋戦争勃発で日本から帰れず、空母神鷹に改造される。
- 西ドイツ海軍の138型教育フリゲート。ゲルハルト・フォン・シャルンホルストに因んで命名された。元はイギリスから購入した改ブラックスワン級スループマーメイド。
- 漫画鋼鉄少女に登場する、戦艦シャルンホルストを擬人化したキャラ。
- ゲーム戦艦少女に登場する戦艦シャルンホルストを擬人化したキャラ。
- ゲームアズールレーンに登場する戦艦シャルンホルストを擬人化したキャラ。
軍人
プロイセン参謀本部の初代参謀総長で、後任のアウグスト・フォン・グナイゼナウと共に参謀本部制度を築いた。「戦争論」で有名なクラウゼヴィッツも改革派将校として彼に師事した。
プロイセン軍指導部には気性が激しく傲慢な貴族将校が多い中、物静かで憂鬱な雰囲気を漂わせ、ハノーファー訛りでぼそぼそと喋る様は哲学者のようで、だらしない格好で平然としていたという。
1755年11月12日、ハノーファー選帝侯国の農家に誕生。
士官学校卒業後、1778年にハノーファー軍に少尉として任官。軍人としてのキャリアを積み、1801年、好条件で招聘してきたプロイセン軍に転職することになる。
しかし身分が低く、外国出身だったため出世は遅く、中々責任ある地位につけなかった。
1807年7月、ようやく少将に昇進。ナポレオン戦争での相次ぐ敗北により軍備再編委員会が設置され、議長に任命された。グナイゼナウ、クラウゼヴィッツらと共に軍制改革に当たる。
1808年8月、プロイセンに徴兵制を導入。
しかし、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はナポレオンの警戒を招くのを恐れ、改革の中止を命じた。更には同盟を結ぶためシャルンホルストをロシア帝国に向かわせながら、ナポレオンに脅されてフランスと同盟を結んだ。失望したシャルンホルストらはオーストリア領シュレージェンに亡命した。
1813年、ナポレオンがロシア戦役で敗れたため、シャルンホルストはプロイセン軍に招聘され中将に昇進し、グナイゼナウを先任参謀将校に任命する。
ロシアと手を組んでの対ナポレオン戦争に参加したプロイセンは諸国民戦争の序盤にリュッツェンの戦い、バウツェンの戦いとフランス軍と戦い敗北する。しかし、いづれも自軍を上回る損害を相手に与えた上で整然と後退し、シャルンホルストたちが改革したプロイセン軍は今までとは違う事を示した。
シャルンホルストはリュッツェンの戦いで負傷していたが、傷をおしてオーストリア帝国に対ナポレオン戦争への参戦を要請するためウィーンへ向かう途中、敗血症を起こしてプラハで死亡した。
装甲巡洋艦
第一次世界大戦の折のドイツ海軍の装甲巡洋艦でシャルンホルスト級装甲巡洋艦の一番艦。
前級のローン級装甲巡洋艦では4門であった21cm砲が本級は8門に倍増され、速力も21ノットから23ノットに増加している。
1908年に青島を拠点とする東アジア巡洋艦戦隊に編入。
1912年12月4日、東アジア巡洋艦戦隊司令長官マクシミリアン・グラーフ・フォン・シュペー中将の旗艦となる。
1914年8月3日の第一次世界大戦勃発の折はボナペに姉妹艦である装甲巡洋艦グナイゼナウ、軽巡洋艦ニュールンベルクと共にあり、11日にパガンに入港。後に軽巡洋艦エムデンと合流するも、13日の出港の折に通商破壊の為に分派。
9月22日、グナイゼナウと共にタヒチ島のパピーデを砲撃し、フランス海軍砲艦ディーレ撃沈。
10月12日にイースター島に入港。18日に出港するまでに軽巡洋艦ドレスデン、ライプチヒと合流。
11月1日、コロネル沖にて英海軍のクリストファー・クラドック少将率いる南米派遣艦隊と交戦。東アジア巡洋艦戦隊は損失艦なしで南米派遣艦隊旗艦装甲巡洋艦グッドホープ、モンマスを撃沈し、ドイツ海軍最大の勝利を得る。(コロネル沖海戦)
12月8日、フォークランド沖にて英海軍のダブトン・スターディ中将率いる南太平洋・大西洋艦隊と交戦。巡洋戦艦インヴィンシブル、インフレキシブルを擁する英艦隊の前にドレスデンを除く東アジア巡洋艦戦隊は壊滅し、旗艦シャルンホルストはシュペー提督と共に撃沈された。(フォークランド沖海戦)
外部リンク:新見志郎「遠き祖国」
戦艦
第二次世界大戦時のドイツ海軍の戦艦で、シャルンホルスト級巡洋戦艦の一番艦。
巡洋戦艦に分類されている資料も多いが、これはイギリス海軍での分類上であり、ドイツ海軍では「戦艦」に分類されている。
第二次大戦では姉妹艦グナイゼナウと共同での通商破壊を主任務としていた。
1939年11月23日、グナイゼナウと共に英補助巡洋艦ラワルピンディを撃沈。
1940年2月、グナイゼナウ、重巡洋艦アドミラル・ヒッパー、駆逐艦2隻と船団攻撃の「ノルトマルク作戦」の為に出撃するが戦果無し。
4月にはノルウェー侵攻「ヴェーゼル演習作戦」に参加。ナルビク上陸部隊を乗せた駆逐艦10隻をグナイゼナウと共に援護し、9日英巡洋戦艦レナウンと交戦。上陸部隊から英軍の目を反らす任務を果たす。
6月、「ユノー作戦」においてグナイゼナウ、アドミラル・ヒッパー、駆逐艦4隻とノルウェーに出撃し、タンカーなど三隻を沈め、ヒッパー、駆逐艦隊を分離させた後の8日、イギリス空母グローリアスと護衛の駆逐艦アカスタ、アーデントをグナイゼナウと共同で沈めるドイツ海軍最大級の勝利を得るも、グローリアス沈没後も奮戦を続けたアカスタの魚雷で損傷を受ける。
1941年1月から3月までの大西洋での通商破壊「ベルリン作戦」で、グナイゼナウと共に総計22隻の商船を撃沈・拿捕する大戦果をあげブレストに入港する。
1942年2月の「ツェルベルス作戦」では戦艦部隊司令長官オットー・チリアクス中将の旗艦を務め、ドイツ空軍との緊密な連携の元、持ち前の速力を生かして英海空軍の散発的な攻撃を潜り抜け、グナイゼナウ、重巡プリンツ・オイゲン、駆逐艦6隻、水雷艇14隻と共に白昼堂々とブレストからドーバー海峡突破を敢行し、二度にわたり触雷するもダメージコントロールの宜しきを得てドイツに帰還する事に成功。
1943年9月6日、「シチリア作戦」で戦艦ティルピッツ等と共にスピッツベルゲン島を艦砲射撃。
12月26日、「東部戦線作戦」で戦闘グループ司令官代理エーリヒ・バイ少将の将旗を掲げ駆逐艦5隻と共にJW55船団攻撃に出撃。索敵のため駆逐艦を分離して単艦になったところをイギリス海軍の船団護衛部隊に攻撃され撃沈された(北岬沖海戦)。
艦長
初代オットー・チリアクス(1939年1月7日~1939年9月23日)
二代目クルト・ケーザル・ホフマン(1939年9月24日~1942年3月31日)
ベルリン作戦でHX106船団を護衛する戦艦ラミリーズを発見し、これを誘致して、その間にグナイゼナウに攻撃の機会を与えようとしたが、ラミリーズは誘いに乗ってこなかった。艦隊司令長官ギュンター・リュッチェンスからは、危険を冒した事と自軍の存在を暴露した事で叱責された。
「ツェルベルス作戦」では帰港の折にタグボートの助けなく入港する操艦を見せた。
三代目フリードリヒ・へフマイヤー(1942年4月1日~1943年10月13日)
四代目フリッツ・ヒンツェ(1943年10月14日~12月26日)
北岬沖海戦にてシャルンホルストと運命を共にした。最後の乗組員への訓示は「最後に臨み、諸君の健闘を感謝す。さらば」。
創作関連
| | |
「じゅんせん魔法少女シャル&ゼナ」(MC☆あくしず)。 | BattleshipGirl_鋼鉄少女北海のワルキューレに登場する戦艦シャルンホルスト。 | 戦艦少女に登場する戦艦シャルンホルスト(沙恩霍斯特)。 |
図鑑No | 114 | 装甲 | 70~85 | 速力 | 31.5 |
---|---|---|---|---|---|
耐久 | 72 | 回避 | 30~60 | 索敵 | 15~40 |
火力 | 56~81 | 対空 | 25~55 | 運 | 16 |
オリジナル艦娘として戦艦シャルンホルストの艦娘のイラスト。
この艦は、均整のとれた艦様や明灰色に塗られた艦体も相まって、姉妹艦グナイゼナウと共に、ナチスドイツに「世界一美しい戦艦」と宣伝されたほか「純白の貴婦人」や、(北岬沖海戦での照明弾で暗闇に浮かび上がった姿が)「黒豹のように精悍で、夜会の舞踏会に招かれた王女のよう」と評されるなどの評価も多い。そのため絵師のハードルも高くなるかもしれない。
余談
創作で沈没時の生存者皆無の「呪われた戦艦」として扱われる事があるが、36名が救出されたので全滅ではない。
就役時、ドイツ海軍では強運の武勲艦とされていた。
「呪われた戦艦」のエピソードは出典が不明で事実と異なる部分が多く、殆どのエピソードがデマである。
1950年代にオカルト雑誌に掲載された記事などが元になったと言われている。
客船
1935年に完成したドイツの貨客船。姉妹船にグナイゼナウとポツダムがある。
1939年に日本に寄港した際、第二次大戦の勃発でドイツに帰れなくなり神戸港に留まる事となった。
ミッドウェー海戦で正規空母4隻を失った日本海軍は商船や水上機母艦などを空母に改造していったが、このシャルンホルストも海軍が正式にドイツから購入し、呉工廠で空母に改造。
日本側は初め空母赤城の代艦として空母グラーフ・ツェッペリンを希望したが、極東への回航は不可能とドイツ側に拒否され、代わりにシャルンホルストを指定した。
1942年9月から空母への改造工事が始まった。大和型戦艦4番艦「111号艦」の資材が流用されたという。
既に大鷹型空母などの経験があったが、設計時に空母への改装を想定しておらず、ドイツと日本の技術レベルの差もあり、予想外に困難だった。
1943年12月、工事が終了し、「神鷹」と命名された。
1944年11月、対馬海峡付近で米潜水艦に撃沈された。
日本郵船の新田丸級貨客船はライバルである『シャルンホルスト』を徹底的に研究して設計され、外観も内部構造も非常に似ていた。太平洋戦争の勃発により航空母艦に改造され、新田丸を初めとする三隻は大鷹型空母となった。
フリゲート
基準排水量:1,350t、全長:91.3m。
第二次世界大戦中はイギリスのスループ艦マーメイドとしてドイツ海軍の潜水艦二隻を撃沈。
1959年に西ドイツ海軍に売却。同時に売却されたオークレイ、アルブライトン、エッゲスフォード、フラミンゴ、アクティーオン、ハートと共に艦級は138型教育フリゲートとなり、シャルンホルストと命名される。
1973年退役。