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献帝の編集履歴

2020-08-07 19:47:13 バージョン

献帝

けんてい

後漢最後の第14代皇帝

姓名:劉協(字は「伯和」) 別名:陳留王、愍帝(蜀からの諡号)

生没:181年~234年 在位:189年~220年


概要

後漢14代皇帝で最後の皇帝。父は12代皇帝『霊帝』。

董卓(西涼軍)によって擁立され、曹操の傀儡時期を経て、曹丕に禅譲し、曹丕劉備孫権が相次いで皇帝となったことでが建国され、本格的な三国時代が始まる。


家系

※数字は帝位順

       12  

   何   霊   王

   皇━┳━帝━┳━美

   后 ┃   ┃ 人  

     ┃   ┃ 

     13    14 

     少   献 

     帝   帝 


  • 霊帝:献帝、少帝の父。諱は劉宏。何進袁紹らを使い、強い権力を誇っていた十常侍を排斥する。
  • 王美人:献帝の母。何皇后に嫉妬され毒殺される。
  • 何皇后:少帝の母。何進は異母兄にあたる。宦官派であり何進とは対立する。
  • 少帝:献帝の異母兄。諱は劉辨(劉弁)。献帝擁立後、弘農王に封ぜられ、董卓配下の李儒らの手で何皇后とともに暗殺される。

後漢滅亡

220年に曹操の死去に伴い、曹丕が献帝に禅譲を迫るが、献帝の皇后であり、曹丕の妹でもある曹節が伝国璽を握りしめて拒んだ。最終的には、曹節が涙を流し伝国璽を投げ付け、ついに禅譲となる。ここに後漢王朝は滅亡する。


献帝と曹節は山陽県にて暮らし、献帝は234年に、曹節は260年に死去した。


禅譲時のできごと・死没者

献帝の禅譲時期は、三国志初期の主要人物が相次いで死去してしまう。

三国の鼎立、そして劉備の死去後は、三国志の後半の始まりに当たるだろう。


  • 219年
    • 定軍山の戦いで劉備軍が勝利。夏侯淵戦死。
    • 曹操と孫権が同盟。樊城の戦いで呂蒙らが関羽に勝利。
    • 麦城にて関羽戦死。呂蒙病死。
  • 220年
  • 221年
    • 劉備が蜀漢の皇帝となる。法正病死。張飛死去。
  • 222年
    • 夷陵の戦いにて呉が蜀に勝利。馬良戦死。
    • 孫権が魏から独立。(実質的な呉の建国)蜀と呉が再同盟。
    • 対呉戦中に張遼病死。
  • 223年
    • 劉備死去。劉禅が蜀の第2代皇帝に即位。
    • 曹仁死去。曹彰死去。賈詡死去。

魏晋南北朝の始まりと終わり

後漢の滅亡期に始まる魏南北朝時代、そしてその後漢最後の皇帝である献帝。

彼の子孫の劉秋とその家族は、80年ほど後の永嘉の乱で匈奴劉淵が興した漢(後の前趙)軍によって殺され、漢朝の血筋は絶えてしまう。


皮肉にも、同じ劉姓で同じ漢を国号としながらも、漢民族の元皇族が異民族の国によって滅ぼされ、この後、華北は様々な民族が、様々な国を建てる戦乱期(五胡十六国時代)に入る。


他民族に反発した漢民族が『冉魏』などを建てた事もあったが、すぐに滅ぼされ、再び漢民族が中国を支配するには、700年ほど後の世であるの時代を待たなければならない。

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