またアメリカ軍は「フランク(Frank)」というコードネームで呼んでいた。これは日本機のコードネームをつける部門の責任者「フランク・マッコイ大佐」が優秀な飛行機に自分の名をつけたからだそうな。
『やつはオスカーじゃない!フランクだ!うわさに聞いたナカジマの新型だ!』
『ベテランの乗ったフランクに挑むやつはバカだ!悪いがバカは助けてやれない。神にいのれ!』
松本零士「パイロット・ハンター」より
『(P-51など)赤子の手をねじるがごとし』
四式戦闘機でP-51と対戦した大日本帝国陸軍少佐「若松幸禧(ゆきよし)」の日記より
『大東亜決戦機』
太平洋戦争開始直後の1941年12月29日、陸軍は中島飛行機に次なる主力戦闘機の開発を命じた。設計主任は小山悌(こやま やすし)。
九七式戦闘機、一式戦闘機、二式単戦と続く中島飛行機製戦闘機の集大成である。これまで1000馬力級だったエンジンは1800馬力の『ハ45(海軍名称NK9「誉」)』に強化され、新しい陸軍航空隊の主力となることが期待された。また愛称は日本全国から広く募集、最も得票数の多かった「疾風」に決定した。
疾風、飛ぶ
昭和19年3月に制式採用された四式戦闘機は、まず飛行第22戦隊に配備され同年8月に中国大陸に進出。米陸軍航空隊のP-38、P-40、P-47、P-51らと矛を交えた。22戦隊は精鋭ぞろいだった事もあり、米軍最新鋭機相手に互角の戦いを展開。中国戦線の制空権を一部取り返すなど四式戦の素性の良さを証明して見せた。
しかし10月12日から始まった台湾沖航空戦では数的劣勢に加え奇襲を受けた事で、迎撃に出た第11戦隊は米機動部隊のF6Fに対し手痛い敗北を喫する。
10月20日に始まったレイテ島の戦いにも海軍航空隊や他の陸軍戦闘機と共に参加。多数の損害と引き換えにではあるがレイテ湾の制空権を一時的に奪回。第一師団のレイテ島侵入に貢献している。
米軍の圧倒的物量を前に苦闘を続ける疾風。それでも『大東亜決戦機』の名のもとに、日本陸軍航空隊最後の輝きを見せてくれるかと思われたが・・・
『奇跡』の功罪
しかし、戦局の悪化が日本の工業に与えた傷は深かった。当初はその高性能をいかんなく発揮していた四式戦だったが、量産機が行き渡るにつれ徐々に綻びが見え始める。
資源不足により材料の質は落ち、工場から送られる部品の精度は低下した。熟練工は残らず徴用され、それを埋めたのは勤労奉仕の高校生だった。その結果現場では機体の不具合が続出、稼働率は全隊平均でおよそ40%、悪いと20%や0%という部隊もあったとか。(ただし戦争後期の稼働率低下は疾風に限った話ではなく、日本機全般の問題であった点には注意)
奇跡のエンジン「ハ45」
その主たる原因は飛行機の心臓部であるエンジンにあった。
疾風に搭載されているハ45(誉)エンジンは同時期の他2000馬力級エンジンに比べ格段に軽量、小型で「奇跡」と呼ばれるほどの高性能エンジンだったが、反面その設計は複雑、精密に過ぎ、当時の日本の工業力では安定した品質を保つ事が難しかったのだ。
悪い事に四式戦登場時は高品質ガソリンも欠乏していた。
実はハ45は100オクタンハイオクガソリンの使用を前提に設計されていたため、91オクタンの軍標準ガソリンでは異常燃焼などの不具合が発生してしまう(ちなみに現在の自動車用ハイオクガソリンがJIS規定で96~100オクタンほど)。
これによるノッキング対策として吸気温度を下げる水メタノール噴射装置が装備されたが、この調整も結構大変で、各気筒が均一に冷却されないとエンジン不調を引き起こした。
また当時はアメリカ製の高品質潤滑油を戦前に備蓄した分に頼って戦っており、廃潤滑油を節約の為再生した再生潤滑油も四式戦に限らず多くの機体で用いられたがこれも悪影響を及ぼしていたらしい(海軍の話になるが開戦時は80%越えだった稼働率がこの頃には平均50%以下まで落ちていたという)。
飛行第104戦隊など再生潤滑油を使わずに高品質潤滑油のみを用いて高い稼働率を維持したという記録もあるが、他の多くの部隊では潤滑油の質的悪化により故障はさらに増加した。
一方で飛行47戦隊の整備責任者だった刈谷正意大尉は、現代の鉄道車両などの整備のように綿密な整備記録を取り、それを操縦者を含む整備に係わる全要員で共有して全機を厳密に管理し、一定時間経過した部品は壊れていようといまいと交換するなど、故障する前に直して高い稼働率(87%!)を保ったが、これは欧米では当時すでに普通に行われていたものだった。要はきちんと整備すれば疾風は普通に飛ぶのである。
個々の整備員の職人芸に頼り、マニュアルも難解でどの部品をどれくらいの時間使用したら交換すべきかあまり書かれていないなど、軍の整備員教育方法自体の間違い、及びそこから派生する整備技術の立ち遅れも日本機全体の稼働率低下の一因になっていたのだ。
終焉
その後四式戦は中国、ビルマ、フィリピンなど日本軍が戦ったほぼ全ての戦場で戦い続け、やがて大戦末期の沖縄戦や本土防空戦に参加。タ弾(空対地クラスター爆弾)による攻撃で敵車両や航空機に大損害を与える事もあったが、戦局全体から見れば限定的な戦果に過ぎず、最後は海軍のゼロ戦などと同じく特攻に使用されていった。
もはや『大東亜決戦機』の威容は無く、沈みゆく大日本帝国を象徴する戦闘機となっていったのである。
されど決戦機の誇り
……と、末期的な話ばかりになってしまったが、本来の性能は優秀である。
速度
昭和18年に陸軍審査部のキ84増加試作機が実用化された日本軍戦闘機のカタログスペックでは最速の『高度6500mで624km/h』の最高速度を記録している。
また武装強化型である乙型の試験機が『高度6500mで660km/h』を出したという資料もあり、実戦参加した量産機はさらに高速を出していた可能性もある。
他に、『審査の基準がかなり厳しかっただけで、量産型では実戦でも650km/h台をバンバン出していた』という説もある。もっともこれは「フル積載4/3状態」で審査する日本軍(海軍も同じ)の計測方法が関係しているようで、速度が上でパワーダイブ(加速しながらの降下)にも強いF6F-5に零戦五二型が追いついてしまった、という事もあったようである。
戦後、アメリカで入念な整備、高オクタン燃料を搭載した機体が『高度6100mで689km/h』という記録をテスト飛行で出しており、これはP-51Dの記録と比べても遜色ないものとなっている。
数値そのものはP-51の『高度7620mで703km/h』に比べると見劣りするが、D型の高度6000mでの最大速度は670km/h前後なので、記録時の高度差を考慮すれば勝っているとも言える。
機体構造
これといって目新しい技術は取り入れていない。
・九七式戦闘機はじめ中島製戦闘機定番の左右の前縁が一直線の主翼(翼端失速がおきにくい)
・一式戦闘機から採用された空戦にも使える蝶形フラップ
・二式単戦にも使われた垂直尾翼を水平尾翼より後方に置く配置(射撃時の座りが良くなる)
・前後分割して作られた胴体 (あまり大きくない工場でも製造、運搬できる)
・後述の生産性を考慮し、できる限り一式戦の治具や部品を流用できるようにする、等
以上の事からこれまでに培った中島製飛行機の集大成といった仕上がりである。また2000馬力級の戦闘機としては非常に軽量(※)である。
※一型甲で3890kg。他の空冷2000馬力級戦闘機と比較するとF6Fが5700kg、F4Uが5400kg、紫電3900kg、紫電改4200kg(3800kg説あり)、烈風一一型4700kg
新機構
……とはいえ新鋭機にふさわしい要素も模索された。
- 風防の変更
一式戦、二式単戦はキャノピーの後方が全て可動する方式(二式単戦の試作型のみ中央部が機体内に引き込まれるタイプ)だったが、これを中央部のみ動くように改めた。
また乗員の安全のため脱出時に風防が簡単に外れるよう、レバーを引くと風防が持ち上がり風圧で吹き飛ぶ機構を装備。さらに風防前面は70mmの防弾ガラスになっている。
- 基準孔集成法の採用
ドイツで行われていたという大量生産方式の一種で、おおざっぱに言うと
「部品と部品の集成(組み上げ)の際、位置を合わせるのに意外と時間がかかるから、あらかじめ部品に基準となる孔(あな)をつけて簡単に組み上げられるようにしようぜ!」というもの。
結果四式戦の生産時間は一式戦や二式単戦の3分の2以下に短縮、おおいに生産性が上がったのだが、末期になると部品の孔自体がずれていたりして大量の不良品を出す原因にもなったとか……
- プロペラ
大馬力発動機にあわせ、使い慣れたハミルトン系の油圧式ではなく、よりピッチ変更角度の大きいフランスのラチェ電気式プロペラを採用している。しかし調整が難しく、本機の稼働率低下の一因となった。
直径は3.05mで、紫電改の3.3mや、烈風の3.6mに比べかなり短いが、これは多少プロペラ効率を悪く(※)しても、主脚を短くして重量を抑えたいという小山技師長の方針によるものといわれる。
※一般的に直径が大きいほど速度、上昇力が上がり、短いとスロットルの反応(加速性)、高速時の効率が良くなる。2000馬力級のエンジンには4翅なら3.8m程度が妥当といわれる。
その他新型の三式射撃照準器の採用や、より堅固になった各種防弾装備など、従来機に比べ相応にグレードアップしている。
武装
武装も一式戦闘機に比べれば大幅に強化されており、機首に12.7㎜機関砲(※)を2門、翼内に20㎜機関砲2門を装備している。世界的にはこれでも軽武装な方になるが、長い航続性能などを考えあわせれば良好だといえるだろう。防御力の高い米軍機に対抗するため機首の機関砲を20㎜に変更した火力強化型のキ84乙型も開発、量産された。その他250kg爆弾及びタ弾を翼下面に搭載可能で、戦闘爆撃機としても一定の戦果をあげている。
※この12.7㎜はアメリカのM2のコピーだったが、本家にはない炸裂弾頭があり、攻撃を受けた米軍パイロットが20mmと誤認するなどその威力は侮れない。
ちなみに日本陸軍は口径11㎜以下の物を「機銃」 それより大きな物を「機関砲」と呼称し、一方の海軍では口径40㎜未満の物を「機銃」 40㎜以上の物を「機関砲」と呼んでいた。
性能バランス
機体設計も格闘戦よりも一撃離脱戦法にふった設計である。急激な操作による空中分解を防ぐためわざと舵が重く作ってあった事もあり、現場のベテラン達には嫌がられたが、時代はすでに一撃離脱戦法に傾いていたし、なによりF6FやP-51などに苦戦していた現場にとってはマトモに対抗できうる「切り札」でもあった。
設計者は『二式単座戦闘機に一式戦闘機の要素を加えた』と語っており、総合的には疾風は一撃離脱戦法も格闘戦も高いレベルでこなせる性能バランスにいたっている。さすがは決戦機である。
反面他の日本機と同様に高高度性能はそれほどでも無く(さすがに旧式機よりはましだったそうだが)、高度6000メートルをピークに徐々に性能が落ち始め、高度8000メートルを超えると急激に性能が低下したという。
航続性能
航続距離は本体タンクのみで1400km、取り外し式翼内タンク込みで1600kmで、これは実はP-51を上回る(※)。
日本の架空戦記などではよく「航続距離が短い」と書かれがちだが、これは零戦と比べてしまうからである。そもそも日本の単発戦闘機の航続距離の長さが異常なんであり、よく短い短いといわれる二式単座戦闘機でも本体タンクだけで1000kmは飛べた。ちなみにBf109やスピットファイアはこの半分~2/3程度でしかない。
実のところ増槽(外付けタンク)を付ければ九州南部から沖縄沖に出撃して、一戦交えて帰ってくるだけの航続性能を持っており、特攻機の直衛などにも使われた。
※P-51の標準航続力は1530kmなので四式戦より短いが、胴体補助タンクをつけると約2200kmとなり四式戦を越える……のだがこの補助タンクの取り付け位置に無理があり、満載すると戦闘行動が著しく制限された。そのため実戦では規定より少ない燃料で飛ぶ事が多かったという。
なお増槽込みの航続距離は四式戦が2500~2900km(米テスト時)。P-51D型が3700~4000km(フェリー時)でP-51に軍配が上がる。
生産・発展型
生産数は約3500機(※)と、採用から終戦までの17か月間に月産平均200機以上も作りまくった。これは前述の基準孔集成法の採用など、生産性にも配慮して設計されていた事が大きい。
内訳は一型甲が約3000機、武装を20mm機関砲4門に強化した乙型が約500機。うち約100機は各種試作機であり、いかにエンジンと機体設計に苦労したか、主力機としてどれだけの期待が掛けられていたかが窺える。
また本家中島飛行機のほか立川飛行機・満州飛行機で木製化や低質鋼材化が計画された。立川の木製機がキ106、立川の低質鋼材機がキ113、満飛の「ハ112II(海軍名称「金星」)」換装機がキ116。しかしキ106が10機、キ116が僅かに1機、キ113に至っては原型機が80%完成したところで終戦を迎え戦争には間に合わなかった。
他に開発元中島による改修案、キ117が存在する。こちらはエンジンを「ハ219(統合名称「ハ44-14」)」(2380馬力)に換装、プロペラ、主翼も設計を変え大幅な性能アップと実用性の向上を図ったものだった。しかしこちらも設計が80%ほど終わった段階で終戦を迎えてしまい、日の目を見ることなく終わってしまった。
高高度性能の改善策として、「サ号機」と呼ばれる機体もテストされた。
誉(ハ45)の水メタノール噴射を酸素噴射に置き換えたもので、高高度での速度が50km/h向上したが、30分ほど使うと急激にエンジンの調子が下がるなど問題もあり、実用化はされなかった。
※ゼロ戦(10430機)一式戦闘機(5750機)につぐ生産数第3位。期間生産率では日本機第1位。ただし米戦闘機の生産数は軒並み1万機を超えており(P-51だけでも16700機!)その全てが太平洋戦線に来るわけでは無いとはいえ、疾風の良好な生産性も焼け石に水であった。
後世の評価
人によって評価の分かれる機体である。
速度、火力、防御力、航続力、生産性をバランスよくまとめた傑作機であると同時に、エンジンに起因するトラブルに悩まされ続けた欠陥機でもある。空中勤務者からの評価も真っ二つに分かれ、若松少佐のような一撃離脱戦法を会得したパイロットからは好評を得たが、従来の格闘戦を好むパイロットからは敬遠された。
戦後の評価も海軍機に比べ知名度の低い陸軍機であるためか、紫電改を擁する第343海軍航空隊のような華々しい逸話も少なく、どちらかといえば整備に泣かされた、苦戦したというマイナスイメージの方が強い。
…だが裏を返せばそれだけ整備や補給の行き届かない、あらゆる戦場で戦ったという事でもある。
連合軍が攻勢を強めていた戦争後期、主力の「零戦」「一式戦闘機」は既に旧式化し、「雷電」「紫電」「三式戦闘機」は機体の不具合が多発。「紫電改」「烈風」「五式戦闘機」ら新鋭機は諸々の事情により開発が遅れ、ようやく完成しても生産数が少なかった(※)。
低稼働率という泣き所はあったものの、圧倒的物量を誇る米軍機相手に質、量の両面で対抗できる機体は当時の日本には疾風しかなかったのである。結果四式戦は米軍の戦力がピークに達した時期に矢面に立たされ、勝算の薄い戦いに身を投じる事となった。
時期が時期なだけに大勝する事こそ無かったが、終戦間際になだれ込んできたソ連軍を二式複座戦闘機と共同で撃破するなど、数に勝る連合軍を相手に最後まで必死に戦い続けた(実は陸軍で最後に空戦戦果をあげたのも四式戦だったりする)。
性能で米軍機を凌駕している訳でも、一式戦の様に扱いやすい訳でも無かったが、四式戦は終戦のその日まで日本軍を支え続けた「The best Japanese fighter(日本最優秀戦闘機)」だったのである。
※紫電改420機、五式戦390機、烈風は試作機が8機のみ完成。
その他の機体は雷電630機、紫電約1000機、二式単座戦闘機1230機、二式複座戦闘機1700機、三式戦約2900機。
現存機
アメリカ軍によってフィリピンで鹵獲されて後に私設航空博物館に払い下げられた一機が唯一の現存機で、レストアされて飛行可能な状態で保存され1973年に日本に里帰りし航空自衛隊入間基地にてお披露目飛行をして航空ファンを唸らせた。その後日本の一業者に引き取られて展示されたが、部品の盗難やら展示状態の悪化により飛行が不可能となった。これを知ったアメリカの前所有者が日本に引き渡したことを後悔したという。
その後展示場所を転々としていたが(栃木県宇都宮市→京都市嵐山→和歌山県白浜市)、現在は鹿児島県南九州市(旧知覧町)の知覧特攻平和会館にて一式戦闘機「隼」の9/10レプリカや海中から引き上げた零戦の残骸と共に良いコンディションで保存展示されている。
(かつて知覧に旧日本陸軍の飛行場があって、四式戦闘機が40機配属されて特攻機の誘導や護衛をしていた上に特攻機として4機が出撃【うち2機が未帰還】したため、知覧と縁の深い飛行機でもあった)
余談
松本零士と四式戦
日本陸軍少佐だった松本零士の父親は戦闘機のテストパイロットを務めていた。
その最後の乗機が四式戦であり、教官を務めながらアメリカ軍とも戦っていた。終戦後は行商人となり、生活も赤貧そのものだったが、日本の再軍備の後に元同僚が自衛隊に転籍する中も行商人を続けた。
その理由とは『敵方の戦闘機には乗りたくない』という漢そのものな理由であり、
松本零士自身も『俺の父親は最高だ』と語る程だった。
(まあ、考え方によっては終わった戦争をうじうじ引っ張る女々しい理由とも受け取れるが…)
この父親のイメージは作品に強烈に反映され、沖田十三やキャプテン・ハーロックの元となった。
なお、他にも三式戦闘機にも乗っていたようで、作品にはこの機についての描写も多い。
登場作品
- 松本零士戦場まんがシリーズ
・パイロットハンター
記事冒頭で紹介されている作品。四式戦パイロットとハンターの交流がメイン(というか実質ハンターが主人公)の話なので、ぶっちゃけ疾風は影が薄い。
・メコンの落日
一式戦に変わる新鋭機として登場。敵エースの乗るP-51と戦うが……
・アクリルの棺
味方の視認性を上げるため後部を赤く塗装した機体が登場。このカラーリングを再現したプラモデルが発売されている。
- 艦隊これくしょん
2017年秋イベントE-3作戦突破報酬として実装。名前は「四式戦 疾風」。他の陸軍機と同様に基地航空隊でのみ運用可能で、性能は対空+10、対爆+1、迎撃+1、戦闘行動半径5
ゲームバランスの関係か、一式戦 隼III型甲や三式戦 飛燕一型丁に性能で同等、もしくは負けているなどかなり抑えめのステータス。
- 荒野のコトブキ飛行隊
敵役として登場。機体性能とパイロットの腕でコトブキ飛行隊の面々を苦戦させた。
ホームページにてイケスカ所属機と自由博愛連合所属機の二種類のカラーリングを閲覧できる。