遊撃隊
ゆうげきたい
役割
本隊とは別に遊撃を主とした部隊。
つまり攻撃・守備を選ばず、また標的を選ばず、状況に応じて戦闘目的を変更する部隊のこと。
そのため、武装は機動性を重視し、移動能力を妨げるほどの重武装は施されない向きが強い。(あくまでそうした方向性にあるだけで、重武装で固めた遊撃隊があり得ないわけではない。)
歴史用語の遊撃隊
幕末に「遊撃隊」を名乗った軍事部隊は、
他にも秋田藩・備前岡山藩・長崎奉行などに、同名の部隊が存在した。
明治以降も日本軍の中に遊撃隊を名乗る部隊はいくつも存在した。
このうち、特に有名なのが、戊辰戦争で活躍した幕府軍遊撃隊の脱走兵が結成した同盟軍の旧幕府軍遊撃隊(主な隊員…人見勝太郎・伊庭八郎)である。
幕府軍遊撃隊
慶応2年(1866年)の江戸幕府の軍政改革で結成された幕府軍の陸軍部隊。
幕府が設置した武芸訓練所「講武所」の中でも剣術・武芸に秀でた旗本・御家人を選んで、将軍警護隊「奥詰」を組織化、これに銃撃隊などを加えたのが「遊撃隊」である。高橋泥舟・榊原鍵吉・桃井春蔵・伊庭八郎といった幕臣のエリート剣客集団からなる部隊で、発足当時は頭取7名の総員366名。(ちなみに慶応3年(1868年)12月、京都見廻組が「新遊撃隊」、新撰組が「新遊撃隊御雇」と名乗るよう命ぜられたが、速攻で返上している。)
慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は大敗を喫した。その後遊撃隊は、高橋泥舟のように新政府軍(薩長軍)に従い将軍徳川慶喜の護衛に徹した恭順派、新政府軍との徹底抗戦を唱え幕府軍から脱走した抗戦派に大きく分かれた。この抗戦派は更に、彰義隊と合流し上野戦争で戦った部隊、伊庭八郎のように榎本武揚ら幕府海軍と盟約し箱館戦争まで転戦し続けた部隊とに分かれている。他に、榊原鍵吉のように隊を抜けて戦争に参加しなかった者、桃井春蔵のように幕臣を辞め新政府軍に下った者もいた。
旧幕府軍遊撃隊
鳥羽・伏見の戦い以降、分裂した幕府軍遊撃隊の部隊の一つで、榎本武揚ら幕府海軍と盟約し後に伝習隊・新撰組らと合流、戊辰戦争終結まで新政府軍(薩長軍)に徹底抗戦し続けた。一般的に戊辰戦争において単に「遊撃隊」と言えばこの部隊を指す。pixivで描かれている遊撃隊もすべてこれ。
伊庭八郎・人見勝太郎・岡田斧吉・本山小太郎ら36名からなる脱走部隊はその後も「遊撃隊」を名乗り、徳川家存続のため脱藩した請西藩主林昌之助(林忠崇)を名目上の大将に据え、請西・館山・勝山などの脱藩兵を加え、最大で300名以上の部隊となった。
榎本武揚率いる幕府海軍艦隊の協力をとりつけ、上野の彰義隊に呼応するため箱根の関所を占領、小田原藩の協力をなんとかとりつける。しかし5月、上野戦争で一日で彰義隊が壊滅、新政府軍に分があると判断した小田原藩は遊撃隊を裏切り、箱根戊辰の役(箱根山崎の戦い)が勃発する。人見が榎本艦隊と約束をとりつけるため不在だったこともあって遊撃隊は一気に劣勢に陥り、箱根から撤退することになる。この戦いで伊庭は左手首から先を失う重傷を負い、一時脱落、榎本艦隊の朝日丸で療養生活を送る。
6月、人見・林らは奥羽越列藩同盟に参加するため小名浜に上陸、東北各地を転戦するも敗戦が続く。9月、徳川家存続決定の知らせを受け、林ら請西脱藩兵は戦う意義を失い降伏、林は仙台で謹慎生活を送る。
10月、人見・岡田らは榎本に従い蝦夷地(北海道)へと転戦。箱館(函館)・松前占領後の11月、不運続きで横浜に潜伏していた伊庭が本山とともに蝦夷地に上陸、松前城で人見らと合流する。12月、榎本が総裁となった箱館政権(俗に言う蝦夷共和国)が発足、人見は松前奉行に選ばれる。
翌明治2年4月、箱館戦争が勃発。新政府軍の猛攻により遊撃隊は壊滅的な被害を受け、4月17日の折戸浜の戦いで岡田・本山が戦死、4月20日の木古内の戦いで伊庭も重傷を負い翌5月に死亡。5月11日、人見は七重浜の戦いで負傷するがかろうじて助かる。5月18日、遊撃隊は新政府軍に降伏。箱館戦争まで戦い抜いた生き残りは人見・小柳津要人らわずか27名であった。