概要
1984年2月20日、アメリカ・クロヴリーファーム生まれ。父はフランスダービー馬ヴァルドロルヌ(Val de l'Orne)、母はアメリカのリボー系牝馬プリンセスモルヴィ(Princess Morvi)。
全弟にはイギリスGⅡ「クイーンズヴァーズ」の勝ち馬リヴァーゴッド(River God)がいる。
フランス時代
1986年8月にフランスでデビューしたものの、走れど走れど全く勝てない…どころか連対すら出来ぬ有様。8連敗目を10着大敗で終えた後、初勝利は87年5月の9戦目。裏開催のストラスブール競馬場を選んでようやく…である。
しかし後が続かず、新馬からクラシックにかけての成績は14戦走ってこの1勝だけ。2着はなく3着2回。その間にフランスではなくドイツなら…とフランクフルト競馬場に遠征して重賞初出走(GⅡヘッセンポカル)を果たしたが、9着惨敗に終わった。
古馬になった88年の2戦目、4月の20頭立てオープン(ロンシャン競馬場)で2勝目をあげたが、3戦目に5着に敗れたところで馬主が諦めてペイザバトラーを手放し、購入したアメリカの馬主エドモンド・ガンに連れられてアメリカに里帰りすることになった。
アメリカ時代
アメリカデビュー戦は88年5月、ベルモントパーク競馬場のGⅡ「レッドスミスハンデキャップ」。15頭中5番人気のペイザバトラーはなんとこれに勝利し、はれて重賞馬に。続く2戦目は同じくベルモントパークの「ポーリンググリーンハンデキャップ」でGⅠに初挑戦し、クビ差2着と善戦。4戦目のGⅠ「マンノウォーステークス」でも半馬身差2着と好走し、アメリカなら意外とやれることを証明した。そしてGⅠを2戦使った後の7戦目、彼の運命を変えるレースがやってくる。
第8回ジャパンカップ
ペイザバトラー陣営はアメリカの競馬の祭典「ブリーダーズカップ」ではなく、日本のGⅠ「ジャパンカップ」への出走を決断する。
当時の日本競馬は史上最大の競馬ブームが起きており、その立役者である葦毛の怪物オグリキャップと、そのオグリキャップをも下して目下8連勝中のタマモクロスの再戦に湧いていた。他に阪神3歳ステークス勝ち馬のゴールドシチー、宝塚記念を制した古強者スズパレード、菊花賞と有馬記念を制したメジロデュレンらが参戦。
海外からも凱旋門賞馬トニービンを筆頭に、南半球から豪州とNZのGⅠを9勝しているボーンクラッシャー、2年連続出走の英セントレジャー&仏サンクルー大賞馬ムーンマッドネスなどそうそうたるメンバーが集結。その中にあってたかだか通算3勝、米GⅡ1勝馬にすぎないペイザバトラーは9番人気。全くと言っていいほど注目されていなかった。
しかし、このJCでペイザバトラーと初コンビを組むことになったクリス・マッキャロン騎手は、東京競馬場のレースビデオを集められるだけ集め、研究に没頭。天皇賞(秋)で死闘を演じたタマモクロスとオグリキャップを最大の敵と睨み、とくにタマモクロスの類稀なる瞬発力と勝負根性を封じ込めるべく入念に作戦を練った。
いざスタートすると、逃げ馬がいないこともあってレースはスローペースの団子状態。ペイザバトラーは前半抑えて中段につけ、バックストレッチで最後方からタマモクロスが大外徐々に上がってくるところに合わせ、そのすぐ内にピタリとついてペースアップしつつ、タマモクロスを外へと押しだす。
府中の長い直線に入ると、ペイザバトラーはこれまでマークしていたタマモクロスから逃げるように、思い切って内へ内へと切り込んだ。負けず嫌いのタマモクロスの力を完全に引き出さぬよう、並んでの叩き合いを避ける。このマッキャロン騎手の狙いはピタリとハマった。
タマモクロスも追うように内へと入っていくものの、後ろから来たトニービンが邪魔で馬体を合わせることは叶わず、道中で折り合いを欠いてスパートが遅れたオグリキャップも届かない。
馬のポテンシャルを120%引き出し、レース展開を読み、マークすべきをマークし、その上で全ての馬を出し抜く。このマッキャロン騎手の最高の騎乗がタマモクロスの年間連勝記録を止め、フランスのミソッカスだったペイザバトラーにGⅠ馬の栄光をもたらした。
(ただし、進路妨害には当たらないものの強引すぎる斜行だとして、マッキャロン騎手は戒告処分を受けている)
その後、12月のGⅠハリウッドターフカップは6着で88年を終える。
その後のペイザバトラー
5歳
ペイザバトラーはその後も米GⅠレースに出走し続けるが、パンアメリカンハンデキャップの2着が1度あったくらいで、フランス時代よりはマシなものの相変わらずパッとしない。秋に入ってGⅢで2着した後、GⅠオークツリー招待に出走。ここでは12ハロン(約2414m)のワールドレコード2:22.4を叩き出したホークスターに敗れたものの、2着と好走。
そして、陣営は今秋もブリーダーズカップではなく、ジャパンカップへの出走を決定。前年に引き続いてマッキャロン騎手とコンビを組んだペイザバトラーはここでも好走する。
第9回ジャパンカップ
日本総大将オグリキャップに加えてスーパークリークにイナリワンと、平成三強が揃い踏み。さらにマイルチャンピオンシップでオグリキャップと壮絶な叩き合いを繰り広げた安田記念馬バンブーメモリー、南関東三冠の女王ロジータ、安田記念でニッポーテイオーを破った豪脚のフレッシュボイスなど強敵揃い。
アメリカからはペイザバトラーに加え、前走で千切られた快速馬ホークスターが、欧州からは凱旋門賞馬キャロルハウスが参戦。レースが始まると欧州の快速馬イブンベイがハナを切り、ホークスターがこれに競りかけ、さらにインコースで好スタートを切ったNZの葦毛女王ホーリックスとオグリキャップが続いて、ものすごいハイペースで逃げていく。ペイザバトラーは後方で脚をためて後半勝負にかけるが、困ったことに前のペースが全く落ちない。
最後の直線に入ってもオグリキャップとホーリックスの葦毛2頭は全く脚が衰えず、後続を千切っていき、ホーリックスがクビ差凌ぎきって勝利。その勝ち時計はJCレコードを2秒以上縮める2400mのワールドレコード2:22.2というメチャクチャなものであり、JRAのCMでは「事件」とまで言われるほどの衝撃だった。
ペイザバトラーはというと後方から猛然と追い上げ、ホークスターやスーパークリークを差し切って3着に入った。タイムは2:22.7であり、前2頭には届かなかったもののこれまた素晴らしいものだった(というか前2頭が色々おかし過ぎた)。
4着スーパークリークも同タイム2:22.7。5着ホークスターのタイムは2:22.9であった。
6歳
ペイザバトラーは半年弱の休養をとった後、5頭立てのオープンレースで復帰し、88年JC以来約1年5ヶ月ぶりに勝利。これが現役最後の勝利となった。
その後GⅠ2回、GⅡ1回走っていずれも着外。10月に8頭立て特別戦で5着、そして引退レースとなった11月のオープンレースは4着だった。
生涯戦績40戦5勝(日GⅠ1勝 米GⅡ1勝)、2着5回(米GⅠ4回、米GⅢ1回)
引退後
実績からみても引退後は厳しいものになるかと思われたペイザバトラー。だが、ジャパンカップでの好走をみた早田光一郎氏が購入し、日本のCBスタッドで種牡馬入りすることが出来た。こうして種牡馬として第2の馬生がスタート。初年度は58頭に種付けを行った。
しかしこれが87世代の運命なのか…ペイザバトラーは初年度の種付けを終えた1991年7月、事故で左後脚の靭帯を断裂してしまい、予後不良。なんと、自身の産駒が生まれる前にこの世を去ってしまった。
彼の産駒はわずか1世代43頭。数少ない産駒からは中央重賞2勝(GⅢ新潟記念、函館記念)&地方重賞2勝(東京3歳優駿牝馬、大井記念)をあげたパルブライト(牝馬)という活躍馬もいたが、後継種牡馬は誕生しなかった。
そのパルブライトは、父スペシャルウィークとの間に中央競馬で4勝を挙げているサインオブゴッドを代表産駒として出している。