爵位とは、貴族のランクである。
当然、地域によって制度が作られた歴史背景が異なるため、単純に相対させることは難しい。
例えば、ある国の公爵は、ある国では王子というようになっている。
「爵」は古代中国の青銅器の酒杯であり、君主に対面する宴での席順から身分を現す言葉に使われるようになった。
対訳英語としては、「Noble rank」、「Title」が使われる。
五等爵
日本で良く知られる公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)の5つの階級。
これは、明治政府が西洋社会に合わせて作ったもので古代中国で使われていたものをそのまま借用した。
日本語名 | 対訳英語 | 叙爵の目安 |
---|---|---|
公爵 | Duke | 摂関家、徳川将軍家 |
侯爵 | Marquess | 清華家、15万石以上の大名 |
伯爵 | Count | 大臣家など、5万石以上の大名 |
子爵 | Viscount | その他の堂上家公家、その他の大名 |
男爵 | Baron | その他堂上公家や大名に準ずる名家など華族相当と見なされた者 |
目安は概ねのものであり、岩倉具視が公爵となり、木戸孝允と大久保利通が侯爵となるなど、維新の功臣には別途華族身分が提供された。なおこれは、欧州の制度と全く合致しなかったため、混乱を招いたのは四方山話。
解説
日本の爵位制度は、1884年7月7日の「華族授爵ノ詔勅」にて成立した。
この勅令により爵位を授かった家を「華族」と呼んだ。華族に選ばれたのは、平安貴族の五摂家など、江戸時代の有力大名などの上級武士である。すなわち中級下級武士のほとんどは華族には選ばれなかった。
この華族制度は1947年5月3日、日本国憲法により廃止となり現在、これらの家々は「旧華族」と呼ばれている。
華族制度は、極めて厳格な運用かつ各々の家の特性を必ずしも忠実に採用したものとは言えず、機械的な側面が大きかった。このため、昭和時代~平成初期までは爵位を名乗っていた当人が存命しているケースが多く逝去時において新聞欄などで「旧○爵」と注釈が付け加えられていたことも多かったが、現在において華族時代の爵位が(後継者になったであろう直系子孫に対して)使われることは殆どない。
これは多くの君主制国家が共和化した欧州とは対象的であるが、そもそも華族制度自体「何れ解消されるもの」(伊藤博文の言によるとされる)と明治政府も認識していたものとされ、旧来の封建的世襲称号を緩やかに解体するためのシステムだったという側面も働いている。つまり敗戦により半ば強制的に解消されたとはいえ、ある意味システムを作った明治の元勲の当初の「思惑通り」に働いた結果とも言えよう。
もっとも、旧華族家各家の当主の多くは江戸時代以前からの公家・大名家なども多く、また旧華族家は華族会館が改称した「霞会館」の会員として現在も関係性を高めている。
明治政府の爵位の他に「形骸化した称号」としては、江戸時代の島津薩摩守・左近衛中将、藤堂和泉守、鳥居甲斐守といった武家官位が(兼職可能な点も含めて)近い。
中国の爵位
古代中国の殷周~春秋時代には五等爵が使われ、爵位と共に領地(封土)を与えられた封建領主が存在したが、始皇帝が中央集権国家を作ると封建領主の肩書は形骸化し、爵位は、貴族の格付けに使う慣習として残った。
秦は、五等爵を二十等爵に改め、漢ではさらに王爵(諸侯王)を加えたが王を名乗ることができるのは、皇族(劉氏)に限られ列候が家臣の最高位とされた。これにより劉氏は他の家臣とは、一線を画す存在に位置づけられていたが魏公曹操がのちに魏王に就いている。
隋になると国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男の九等爵になった。
この国王は、朝貢国、属国の君主に送られる称号で家臣には、与えられなかった。
これ以降、唐・宋・元・明の時代には、五等爵、三等爵を基本として爵位制度が作られた。
五等爵 | 隋 | 元 |
---|---|---|
- | 王 | 王 |
公 | 郡王・国公 | 郡王 |
候 | 開国侯 | 国公 |
伯 | - | 郡公 |
子 | 開国伯 | 郡候 |
男 | 開国子 | 郡伯 |
- | 開国男 | 県子 |
- | - | 県男 |
また唐から宋にかけて科挙が機能するようになると血縁による世襲がなくなり、爵位は勲功にもとづく栄典に近くなった。
この例としては、宋の荊国公王安石、明の魏国公徐達らがいる。清代には爵位に地名を付ける慣習もなくなった。
王
中華皇帝に朝貢する朝貢国の君主あるいは、皇族に与えられる爵位。
ただし基本的に中国とそれに習う日本では、君主と家臣が区別されている。
公・候
候が都市や地方の首長・領主という意味。「諸侯」という言葉に名残りが残っている。
元々は同じものだったが、公はより特別な格付けが為された。
伯
長官という意味。このため、日本では伯(かみ)という読みが当てられた。
子
王子、貴族の子息という意味から来ている。
後に小都市の首長を指す爵位に使われた。
男
役人。
欧州の爵位
欧州の爵位は、古代ローマに由来するものやゲルマン人の習俗から名付けられたものが多い。
主なったものをランク順に並べる。
日本語 | 対訳英語 | 解説 |
---|---|---|
皇帝 | Emperor | 神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝) |
王 | King/Queen | 王国の君主 |
大公 | Archduke | 太公とも。ハプスブルク家が特別に使用 |
大公 | Grand Duke | トスカーナ、リトアニア大公国など |
公爵 | Prince/Duke | 君主の子女、あるいは大領主 |
選帝侯 | Prince-Elector | ドイツのみ |
副王 | Viceroy | 海外領土の総督 |
侯爵 | Prince/Marquess | 公爵の下、伯爵の上 |
辺境伯 | Margrave | 欧州の端っこ |
伯爵 | Count/Earl | 欧州全土にいた |
子爵 | Viscount | 伯爵の補佐 |
男爵 | Baron | 最も低い爵位 |
準男爵etc. | Baronet | (英国のみ、売爵用) |
騎士 | Knight | ドイツのリッター |
皇帝
西欧において皇帝は、滅亡した西ローマ帝国の後裔者である神聖ローマ皇帝を指す。
一応、欧州全土、全キリスト教信者を疑似的に一つの国家と見做し、その最高位の君主である。
そのため、形式上ではフランス王やイングランド王などは皇帝の格下ということになっていた。しかし、実際には自分の手元に保持していた王位の勢力範囲にしか影響を及ぼすことは出来なかった。
中世ではドイツ王兼イタリア王兼ブルグンド王が教皇に戴冠してもらって皇帝になる、という手順を踏む。これがどんどん形骸化して、最終的にはイタリアにもブルグンドにも勢力は及ばなくなるし、戴冠されてもいないのに皇帝を名乗るようになった。
それと前後して、選帝侯の選挙によって選ばれるという仕組みもできあがった。つまり、中世末期から滅亡までは、選帝侯の選挙によって皇帝が決まる。選帝侯は最初は7人だったが、時代が下るにつれて少しずつ増えていった。
1648年のウェストファリア条約で、皇帝も国王も(儀礼上はともかく)それぞれ同等になった。これをもってヨーロッパは現代のような、対等の国々がせめぎ合う時代になったのである。
さて、近代に入ると、ローマでは人々が皇帝を選んだのを理由にナポレオンがフランス皇帝を名乗ると、神聖ローマ皇帝はオーストリア皇帝と名前を変えた。1870年普仏戦争でドイツを統一したプロイセンが皇帝を名乗って、ドイツ皇帝が成立。それと引き替えにフランス帝国が共和制になって崩壊。
で、1919年、第一次世界大戦の終結をもって、オーストリアとドイツの両帝国が崩壊して、西欧から皇帝はいなくなった。
なお、他にカスティーリャ王が皇帝の称号を使用したことがある。
また、ポルトガルやイギリス、イタリアなどがヨーロッパ外の植民地で皇帝を称することもあった。特にイギリス国王はインド植民地化後は「インド皇帝」を称していたが、シャー系列のアジア文化圏に属する皇帝位であり西洋には珍しくローマ皇帝と無関係な皇帝位であった。
東ローマ帝国皇帝は、欧州に存在したもう一つの皇帝だが、オスマン帝国によって滅ぼされた。その後ロシアがその後継者を称して皇帝を名乗り、これも第一次世界大戦まで続いたがロシア革命で滅んだ。
また、東欧ではブルガリアが皇帝を称していたことがある。
国王
欧州各地の王。形式上、皇帝に従う形ではあるが、ほぼ独立国で影響下になかった。しかしボヘミア王のように選帝侯として帝国に強くコミットした国王もある。また、ドイツ王、ブルグンド王、イタリア王の3つの王位は神聖ローマ皇帝が保持し続けた。
皇帝と欧州の王の関係は、中国が朝貢国の君主に国王の称号を与えた関係に似ている。
皇帝と国王とその他国家代表の序列は、例えばバチカンでの教皇自身のミサで各国大使がどの序列で座ったかで明示された。以下に16世紀初頭の序列についての史料を抜粋例示しよう。数字が序列で主要国の君主のみ抜粋、国王は全てそれ以外の国家代表より上位に記載されている。
①神聖ローマ皇帝 | ②ローマ王 | ③フランス王 | ④スペイン王 | ⑥ポルトガル王 |
⑦イングランド王 | ⑧シチリア王 | ⑨スコットランド王 | ⑫ボヘミア王 | ⑬ポーランド王 |
⑰ノルウェー王 | ⑱スウェーデン王 | ㉓バイエルン公 | ㉕ザクセン公 | ㉖ブランデンブルク辺境伯 |
㉗サヴォイア公 | ㉘ミラノ公 | ㉙ヴェネティア首長 | ㉛ロレーヌ公 | ㉞ジェノヴァ首長 |
注:ローマ王というのはドイツ王のこと。まだ皇帝として正式に戴冠していない神聖ローマ皇帝を指す。また、皇帝によっては、後継者を選帝侯によって皇帝に選出させることがあったが、こういう後継者もローマ王と呼ばれた。出典:君塚直隆『カラー版王室外交物語』,2021,pp.88
大公
「アーチデューク」と「グランドデューク」の二つがある。
前者は、神聖ローマ皇帝を輩出する欧州最大の大貴族ハプスブルク家が独自に使用した爵位。後者と区別するために太公と書くことがある。後者がトスカーナ大公国やリトアニア大公国のような自立した国家の君主の称号。
大公は、外交上、国王より下とされた小国だが、多くが自立している。
現在もルクセンブルク大公国などがある。
公爵
伯爵に対し、公爵は領主の中でも広い領土を持つ有力貴族に与えられた。
多くの公爵(ドゥクス、デューク)は、フランス王国や神聖ローマ帝国が形成される中世に地方の部族長だったものたちが、そのまま体制移行したもの。ザクセン、バイエルンなどのように、中世初期には王国だったものが、フランク王国の支配下に入ってそのまま公国になるというパターンが多い。ただ、時代が下るにつれて、国王と対立して分割されたり(ザクセン公→ザクセン公、ヴェストファーレン公、ブラウンシュヴァイク公 など)、消滅していったり(シュヴァーベン公、フランケン公 など)していった。
のちにプロイセン公国になったドイツ騎士団国家やマルタ騎士団の騎士団総長も神聖ローマ帝国では公爵に相当する身分と考えられた。
同じ公爵でも、プリンスが対訳になっている公爵は、上記のデュークとはまったくの別もの。プリンスはだいたい、「国王の称号がもらえない独立君主」ぐらいに思ってよい。これが君主の家族に与える称号みたいに扱われるのは、イングランド王国において王太子にウェールズ公(プリンス・オヴ・ウェールズ)の称号が与えられたことに由来する。独仏ではPrinceを「王子」と訳すとだいたい間違いなので注意した方が良い。
しかもドイツではPrinceにあたるFuerstは、明確に公爵や選帝侯、辺境伯よりも下の爵位。こちらは公爵とせずに侯爵を当てることも多い。
現在でもリヒテンシュタイン公国などが存在する。リヒテンシュタインはPrinceで、ドイツ圏なのでリヒテンシュタイン侯国と書くことも。
選帝侯
1356年に皇帝カール4世が発布した金印勅書で成立した、神聖ローマ皇帝を選出する権力を持った特別な貴族たち。厳密には選帝侯という爵位があるわけではなく、帝国内の7人の諸侯に選帝権が与えられる、という形。
しかも選帝侯になると、かってに貨幣を鋳造してもいいし、領内の裁判の判決について帝国の裁判所に控訴するのを拒否する権限も持っていた。
皇帝が死去すると、選帝侯がフランクフルトに集まり、そこで選挙を行う。選帝侯の過半数の票を集めた人が皇帝(厳密にはローマ王)になり、その人がアーヘンで戴冠式を行う。
金印勅書の時の選帝侯は、ケルン大司教、トリーア大司教、マインツ大司教、ボヘミア王、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ライン宮中伯。
副王
「ヴァイス・ロイ」を直訳したもので「総督」を意味する。
アラゴン王国が、地中海周辺に勢力を広げていった際に、国王の命令が行き届きにくい地域に派遣したもの。アラゴンとカスティーリャが合わさってスペインが出来ると、スペインは中南米の海外領土に王国を設定し、それらに代理として副王を送った。そのため、その任地は、副王領と呼ばれた。副王は、有力貴族から選ばれ、現地で軍隊を指揮するほど強力な権力を握ることもあれば、ただの見張り役程度の場合もあった。
しかし時代が下ると王族に与えられる称号になり、実際の職務はなくなっていった。
侯爵
フランス、スペイン、イギリスなどで使用される。
特にイギリスでは、公爵の従属爵位で公爵の嫡男が与えられる。
他の国では、伯爵と公爵の間という位置取りから数は多くない。
ドイツでは、近代に新設されたFuerstに侯爵という訳を当てることがある。詳しくは公爵の項を参照。
辺境伯
文字通り、端っこの領主。
フランク王国がその四方の辺境につくったもので、国境を守る領主であるため、他の伯爵より強い権限が与えられた。
スラブ人、イスラム教徒、ブリテン島のケルト地域など非キリスト教信者が住む地域との境界に設けられた。ゲロ辺境伯のように、異民族に破れて消滅するものもあったし、ブランデンブルク辺境伯のように、異民族に勢力を拡大し、ほかの爵位を手に入れて雄飛するものもあった。
ニュルンベルク城伯からブランデンブルク辺境伯、選帝侯を兼任し、やがてプロイセン公からプロイセン王となりドイツ帝国を興したホーエンツォレルン家が有名。
またフランク王国がイベリア半島に作ったスペイン辺境伯は、やがてナバラ王国とバルセローナ伯爵領に発展し、そこからカスティーリャ王国、レオン王国、アラゴン王国が生まれていった。これらを統合して生まれたのがスペインである。
五等爵では侯爵相当とすることが多い。しかし前掲の教皇庁序列資料でのブランデンブルク辺境伯の序列が諸国の公爵よりも上であったことから明らかなように、その強い軍事的政治的権限に根差した影響力は侮りがたいものがある(なお、ブランデンブルクの序列が高いのは選帝侯だからだと思われる)。
伯爵
広い領土を持つ公爵(ドゥクス)に対し、伯爵(カウント)は都市の首長ぐらいの小領主だった。
ドイツでは伯爵は「グラーフ」が当てられ、宮中伯(プファルツグラーフ)、方伯(ランドグラーフ)、城伯(ブルググラーフ)がある。中でも辺境伯(マルクグラーフ)が最も高い身分とされた。また宮中伯は、公爵領に対して国王がその一部を奪って自領とし、そこに送り込んだ伯爵(国王の宮殿を守る役だというので宮中伯)。これもかなり強かったのだが、ほとんどの宮中伯は周辺諸侯との争いに敗れたり監視するはずの公爵と統合したりして生き残らなかった。生き残ったのはライン宮中伯・選帝侯とブルグンド宮中伯ぐらい。ライン宮中伯・選帝侯は単に宮中伯選帝侯(プファルツ選帝侯)と呼ばれるようになった。プファルツはほとんど地名扱いされている。ブルグンド宮中伯は国王への義務を免除されたために自由伯と呼ばれるようになった。
イングランドでは、統一前の七王国の領土を治める権限を持っていたのが伯爵(エーラル)だった。この時はイングランドには公爵にあたるものはなく、伯爵が公爵並みの権力を持っていた。その後、王族限定で公爵、侯爵が新設された。結果、エーラルが3番目の爵位、つまり伯爵相当となった。とはいえ、大陸のカウント(Count)とエーラル(Earl)は、同一視されつつも使い分けられている。
公爵の前身が地方の部族長であるのに対し、伯爵は君主に派遣された文官・役人であり、重要な都市部を任されたものが起源とされている。ドイツ語のグラーフはギリシャ語の書記という言葉に由来し、数学のグラフと同語源である。
子爵
ヴァイ・カウント。直訳すると副伯爵、伯爵補佐となる。
カロリング朝フランス王国で伯爵を補佐するために設置され、最初は世襲できない称号だったが次第に継承されるようになり、後に公務員などに置き換えられていった。フランスの貴族制を取り入れたイギリスにも設置されたが、ドイツにはない。
男爵
欧州全土にいた小領主。
地方に派遣された役人、あるいは大土地所有者の豪農が起源とされる。封建領主として伯爵や公爵の下に位置していたが、ある程度の統治権があった。
貴族の称号として含まない見方もある。
準男爵
世襲される称号の中では最も低い地位。イギリスが近代以降に金銭を得るために売買目的で作った称号。
厳密には貴族ではない。
騎士
平民より上だが貴族よりは下の、準貴族と言うべき地位。
貴族ではないがゆえに、継承権が無く、世襲されない一代限りの称号。
従騎士
エクスワイア。騎士見習い。
基本的には騎士の身の回りの世話をする役職。
紳士(郷紳)
ジェントリ。貴族ではないが、実質的には貴族として扱われる有力者たち。
準男爵・騎士・従騎士のいずれかの地位に分類される。
歴史
皇帝と王は、君臣を完全に分けて考えていたアジア的専制君主の発想から言えば臣下である貴族とは別種の存在だが、西欧の封建時代の貴族は日本の武士に近い土地支配者であり、征夷大将軍が武家に入るのと同じような感覚で貴族の中の上位としての扱いだった。
これらの爵位は、中世に実際の土地支配権を示していた時と、近世に単なる格付けになった時とで意味合いが異なることには注意が必要である。日本の華族では爵位は家格を示していたため公爵と同時に伯爵であるようなことはなかったが、中世ヨーロッパで実際の土地支配権を示していた場合にはそのようなことがあった。たとえば百年戦争の原因となったヘンリー2世は、イングランド王であると同時にフランスの地方領主であるアンジュー伯でもあった。日本の場合、室町時代に複数カ国の守護職を兼ねた武士がいた例と相同だと考えると理解しやすい。
元が土地の支配権を示す語であったため、基本的には爵位の前には(形骸化していたとしても形式的に)領地の地名を付け、合わせて一つの肩書となっていた。これについは、江戸時代の武家官位が、形骸化していたとは言え「○○守」のように土地の名前を冠していたことを考えると理解しやすい。ただ、中国では清代、日本では明治の華族に関しては、地名を付ける習慣さえ廃れ、公侯伯子男のみで貴族の格付けを示す称号となっている。
ヨーロッパでは、古代ローマで元老院や要職を独占する貴族(パトリキ)はいたが、組織化された爵位のようなものはなかった。近代につながる爵位は、ほとんどが中世のゲルマン人が作った国における地方官や封建領主に由来する。
イギリス・フランス・スペインでは百年戦争後、レコンキスタ終了後の15世紀ごろ、ドイツやイタリアでは統一運動の起こる19世紀ごろに中央集権化が達成され、封建領主は実権を失っていき、貴族は国王の廷臣として議会の議席や公職を得る立場に変わっていき、爵位は単に貴族の格付けのみを示すのみに変容した。ただし、現在に至るまで爵位には領地の名前がセットになる慣習が継続しており、例えばイギリスの爵位の1つ「ヨーク公」というのは、ヨークという現在でもイギリスに存在する都市の土地を支配していたことに由来する。
日本や中国の爵位と異なる特色として、爵位を複数保持しセットで相続するのが当たり前で、男子には余った爵位を貸し出すという風習があることが挙げられる。イギリス国王が王太子にウェールズ公の爵位を貸し出すのもこの伝である。
前述した慣例により、ヨーロッパにおける爵位は近代日本のそれと違い「土地」に起因するものであり「家名」に付するものではない。従って、例えば出身国で君主制が廃止されようが、該当する土地が別の国に支配されようが、「権利」としてその爵位を名乗り続ける習慣が残存している。
例えばフランスやドイツでは100年以上前に君主制が国家制度としては廃止されたが、「パリ伯」「オルレアン公」「オルデンブルク大公」といった爵位を、後継子孫が名乗り続けているものは数多い。中でも一部の称号は王や皇帝に何れなるべきもののを示す「王家当主」の専属称号として広く知られている。
現代においてはシーランド公国などのミクロネーションが爵位を販売しており、お手頃な価格でネットで購入することが可能である。当然のことながらこのような爵位に現実的には何らの法的拘束力はないが、芸能人やVTuberなどが購入したりプレゼントされたりしている例はしばしば認められ、ちょうど「月の土地」や「星の命名権」のように(ネタとして)扱われている。