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小島太の編集履歴2022/10/11 12:40:37 版
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小島太

こじまふとし

美浦トレーニングセンターに所属していた元騎手・元調教師。現在は競馬評論家。(1947-)

プロフィール

生年月日1947年4月11日
元所属東京美浦
騎手時代の厩舎高木良三厩舎→高木嘉夫厩舎→フリー

概要

出自

1947年北海道斜里郡小清水町に生まれる。父は馬商と装蹄師をしており、家業の関係から幼少のころより馬に親しんで育った。小学生になると夏休みには手伝いとして地方・道営競馬に出入りし、高学年に入ってからは中央競馬の競馬場にも足を運び、その折に東京優駿の中継に目が釘付けとなり、騎手をいつしか目指していた。

1962年秋にJRAの騎手養成長期課程を受験し合格し、翌1963年春、中学校卒業後に騎手課程第14期生として馬事公苑の騎手養成所に入所した(当時は競馬学校創設前である)。その2年時に師匠である高木良三調教師のもとで研修を積み、騎手課程修了後に高木厩舎に所属することが決まる。また、後に小島を公私ともにバックアップする、さくらコマース代表である全演植モランボン社長でもある。)ともこの見習い時代に知己を得ている。

騎手時代

1966年3月に騎手としてデビューし、7月に初勝利を挙げる。翌1967年5月、東京障害特別(春)(現・東京ジャンプステークス)を勝って重賞初勝利を挙げ、当年重賞3勝を含む37勝の成績を収める。当時の関東は名騎手が揃っている中で頭角を現していき、1972年には48勝を挙げ、関東リーディングジョッキー(年間最多勝騎手)となった(全国では3位)。

1973年サクライワイ函館3歳ステークスを制し、全に初の重賞勝ちをもたらした(のちにスプリンターズステークスを優勝)。1978年にはサクラショウリ東京優駿を勝ち、八大競走初制覇を果たした。1979年にはビンゴガルー皐月賞を勝ち、年間重賞8勝を挙げ、以後も毎年の重賞勝利を重ねた。

このさなか1976年に師匠である高木良三調教師が病気で引退し、小島は新規開業した高木の子息・高木嘉夫厩舎に移籍したが、これと同時期に同じく厩舎を構えていた境勝太郎の長女と結婚し、全の預託馬の比重は境厩舎へ多く移っていった。これによって、80年代の競馬界の名物「馬主・さくらコマース(全演植)、調教師・境勝太郎、騎手・小島太」の組み合わせが成立する。

1983年、小島はさくらコマース所有馬への騎乗を円滑にするため、高木厩舎を離れフリーランスとなる。これと同時に、さくらコマース代表・全演植と正式な騎乗契約を交わした(当時としては画期的だったという)。1986年サクラユタカオー天皇賞(秋)に優勝し、サクラショウリ以来の大競走制覇を果たす。

しかしこのさなか、小島と全の関係が一時悪化し、契約を打ち切られる。そのため1987年にはサクラスターオーの騎乗でもクラシック本番の前に降板することになってしまった。なお、幸いにも最初に所属した高木厩舎での弟弟子の仲介もあり、その後年内に全とは和解している。

全との復縁を果たしたあと、サクラチヨノオー朝日杯3歳ステークスを勝ち、さらに翌1988年に同馬で自身2度目の東京優駿優勝を果たし、さらに同年冬の朝日杯でもチヨノオーの弟・サクラホクトオーに騎乗して勝利を収めているが、ホクトオーのGⅠ勝利はこれのみで、翌1989年の牡馬クラシックをホクトオーで戦うが全て全敗と苦杯をなめた。

1993年はサクラユタカオーの仔・サクラバクシンオーに騎乗し、スプリンターズステークスを制覇。このレースでは小島の恩人・全演植が直前に亡くなっていたため、全への感謝と勝利して全へのはなむけとした逸話が残っている。翌1994年12月4日にサクラキャンドルによる勝利で史上13人目の通算1000勝を達成、18日にはサクラバクシンオーでスプリンターズステークスを連覇し、レコード勝ちのラストランを飾った。

1995年秋に調教師転身を決断して翌1996年2月一杯での引退を発表。その秋のGI戦線ではサクラチトセオーで自身2回目の天皇賞(秋)とサクラキャンドルでエリザベス女王杯に優勝し、引退を惜しまれた。翌1996年2月25日をもって騎手を引退。JRA通算8476戦1024勝、うち八大競走・GI競走10勝を含む重賞84勝を挙げ、このうち重賞勝利の半分は全率いる「サクラ」冠名のさくらコマースによるものであった。

調教師時代

調教師に転身後はさくらコマースのほか、カフェの冠名を持つ西川清と出会い、多く預託先となった。イーグルカフェ2000年NHKマイルカップ2002年ジャパンカップダート)やマンハッタンカフェ2001年菊花賞有馬記念2002年天皇賞(春))などを管理した。GⅠ勝ちはこの2頭のみだったが、2002年、2004年、2006年に関東での優秀調教師賞を受賞している。2018年、定年により引退した。

人物

騎手時代、大舞台での勝負強さと数々の印象的な騎乗もあって「華のある男」と評され、表面的な実績以上の強い存在感を放っており、とりわけサクラユタカオーの天皇賞(秋)やサクラチヨノオーの東京優駿は小島のベストレースとして挙げられるほどである。

その一方で、人気馬に騎乗しながら負けることが多々あり、とくに不良馬場のレースは苦手とし、サクラホクトオーの皐月賞はその典型とされる。

また、騎手時代は公私ともに「品行方正」という評価とは無縁な派手な生活を送っていたことで知られる。堺調教師は「呑んべえ野郎でどうしようもない。レースでも私生活でもあれだけハラハラさせる奴はいない」と評し、競馬評論家の大川慶次郎「小島太の生き様は誰もが真似して成功する生き様じゃないんですよ」と語った。小島自身も「元祖・不良」と自認している。

一方で調教師となってからはそんな生活は鳴りを潜め、水や電気は節約するよう口酸っぱく言うなど従来とは真逆の経営者としての顔を見せた。また、厩舎を自ら掃除するのが日課となっており、新人記者が厩舎を訪ねた際に掃除中の小島に「先生いますか?」と聞いたというエピソードが残っている。

交友関係

見習い騎手時代に同期だった田島良保騎手・調教師とは生涯の親友で、その田島の弟弟子である田原成貴ともその縁で知己を得ている。田原つながりで四位洋文武幸四郎とも交友を得、調教師転身後も多く騎乗依頼をしていた。また、ランフランコ・デットーリが来日した際には、小島が多く身元を引き受けていた。

競馬外でも自身が相撲好きであり、とりわけ北勝海関(現・八角親方)との交友は深く知られており、またNHKの大相撲中継でも解説者として招かれたこともある。

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