プロフィール
概要
出自
1947年、北海道斜里郡小清水町に生まれる。父は馬商と装蹄師をしており、家業の関係から幼少のころより馬に親しんで育った。小学生になると夏休みには手伝いとして地方・道営競馬に出入りし、高学年に入ってからは中央競馬の競馬場にも足を運び、その折に東京優駿の中継に目が釘付けとなり、騎手をいつしか目指していた。
1962年秋にJRAの騎手養成長期課程を受験し合格し、翌1963年春、中学校卒業後に騎手課程第14期生として馬事公苑の騎手養成所に入所した(当時は競馬学校創設前である)。その2年時に師匠である高木良三調教師のもとで研修を積み、騎手課程修了後に高木厩舎に所属することが決まる。また、後に小島を公私ともにバックアップする、さくらコマース代表である全演植(モランボン社長でもある。)ともこの見習い時代に知己を得ている。
騎手時代
1966年3月に騎手としてデビューし、7月に初勝利を挙げる。翌1967年5月、東京障害特別(春)(現・東京ジャンプステークス)を勝って重賞初勝利を挙げ、当年重賞3勝を含む37勝の成績を収める。当時の関東は名騎手が揃っている中で頭角を現していき、1972年には48勝を挙げ、関東リーディングジョッキー(年間最多勝騎手)となった(全国では3位)。
翌1973年にサクライワイで函館3歳ステークスを制し、全に初の重賞勝ちをもたらした(のちにスプリンターズステークスを優勝)。1978年にはサクラショウリで東京優駿を勝ち、八大競走初制覇を果たした。1979年にはビンゴガルーで皐月賞を勝ち、年間重賞8勝を挙げ、以後も毎年の重賞勝利を重ねた。
このさなか1976年に師匠である高木良三調教師が病気で引退し、小島は新規開業した高木の子息・高木嘉夫厩舎に移籍したが、これと同時期に同じく厩舎を構えていた境勝太郎の長女と結婚し、全の預託馬の比重は境厩舎へ多く移っていった。これによって、80年代の競馬界の名物「馬主・さくらコマース(全演植)、調教師・境勝太郎、騎手・小島太」の組み合わせが成立する。
1983年、小島はさくらコマース所有馬への騎乗を円滑にするため、高木厩舎を離れフリーランスとなる。これと同時に、さくらコマース代表・全演植と正式な騎乗契約を交わした(当時としては画期的だったという)。1986年にサクラユタカオーで天皇賞(秋)に優勝し、サクラショウリ以来の大競走制覇を果たす。
しかしこのさなか、小島と全の関係が一時悪化し、契約を打ち切られる。そのため1987年にはサクラスターオーの騎乗でもクラシック本番の前に降板することになってしまった。なお、幸いにも最初に所属した高木厩舎での弟弟子の仲介もあり、その後年内に全とは和解している。
全との復縁を果たしたあと、サクラチヨノオーで朝日杯3歳ステークスを勝ち、さらに翌1988年に同馬で自身2度目の東京優駿優勝を果たし、さらに同年冬の朝日杯でもチヨノオーの弟・サクラホクトオーに騎乗して勝利を収めているが、ホクトオーのGⅠ勝利はこれのみで、翌1989年の牡馬クラシックをホクトオーで戦うが全て全敗と苦杯をなめた。
1993年はサクラユタカオーの仔・サクラバクシンオーに騎乗し、スプリンターズステークスを制覇。このレースでは小島の恩人・全演植が直前に亡くなっていたため、全への感謝と勝利して全へのはなむけとした逸話が残っている。翌1994年12月4日にサクラキャンドルによる勝利で史上13人目の通算1000勝を達成、18日にはサクラバクシンオーでスプリンターズステークスを連覇し、レコード勝ちのラストランを飾った。
1995年秋に調教師転身を決断して翌1996年2月一杯での引退を発表。その秋のGI戦線ではサクラチトセオーで自身2回目の天皇賞(秋)とサクラキャンドルでエリザベス女王杯に優勝し、引退を惜しまれた。翌1996年2月25日をもって騎手を引退。JRA通算8476戦1024勝、うち八大競走・GI競走10勝を含む重賞84勝を挙げ、このうち重賞勝利の半分は全率いる「サクラ」冠名のさくらコマースによるものであった。
調教師時代
調教師に転身後はさくらコマースのほか、カフェの冠名を持つ西川清と出会い、多く預託先となった。イーグルカフェ(2000年NHKマイルカップ、2002年ジャパンカップダート)やマンハッタンカフェ(2001年菊花賞・有馬記念、2002年天皇賞(春))などを管理した。GⅠ勝ちはこの2頭のみだったが、2002年、2004年、2006年に関東での優秀調教師賞を受賞している。2018年、定年により引退した。
人物
騎手時代、大舞台での勝負強さと数々の印象的な騎乗もあって「華のある男」と評され、表面的な実績以上の強い存在感を放っており、とりわけサクラユタカオーの天皇賞(秋)やサクラチヨノオーの東京優駿は小島のベストレースとして挙げられるほどである。
その一方で、人気馬に騎乗しながら負けることが多々あり、とくに不良馬場のレースは苦手とし、サクラホクトオーの皐月賞はその典型とされる。
交友関係
見習い騎手時代に同期だった田島良保騎手・調教師とは生涯の親友で、その田島の弟弟子である田原成貴ともその縁で知己を得ている。田原つながりで四位洋文や武幸四郎とも交友を得、調教師転身後も多く騎乗依頼をしていた。また、ランフランコ・デットーリが来日した際には、小島が多く身元を引き受けていた。
競馬外でも自身が相撲好きであり、とりわけ北勝海関(現・八角親方)との交友は深く知られており、またNHKの大相撲中継でも解説者として招かれたこともある。