隅田川西岸にできた都市であり、現在の東京。タグとしてはおおむね江戸時代を舞台にした作品につけられている。日本最大の城下町として「江戸八百八町」と謳われたが、その大半が武家屋敷である。庶民層である町人や借家人は比較的狭い地域に密集して住んでいた。
江戸を本拠とした有力者は平安時代の武士、江戸重継が最初である。後に扇谷上杉家に仕えた太田道灌が入り江戸氏の居城跡に江戸城を築く。道潅の死後、江戸の支配者は扇谷上杉氏から後北条氏と移り変わり、その間も宿場町・港町として機能した。
江戸が城下町として後の繁栄の礎を築いたのは、豊臣秀吉が徳川家康に関八州を与え駿府から江戸に移封してからである。関ヶ原の戦いに勝利して征夷大将軍の宣下を受けた家康は武家の惣領として江戸をそれに相応しい都市にすべく、大土木工事を行う。江戸城は巨大な堀を三重にめぐらせた大城郭となり、家康は商人や職人を上方から呼び寄せて、巨大都市を創り上げた。西暦1657年(明暦三年)の明暦の大火後、防火の縄張りとして隅田川をまたぐ両国橋が出来ると、江戸の町並みは隅田川の東側にまで広がった。
単身赴任の武士や、田舎から出てきた次男、三男がひしめく江戸は、独身男性が異様に多かった。寿司や蕎麦、天ぷらや縄のれんなどの屋台が独り住まいの男たちに人気を呼び、吉原や深川、それに品川、板橋、千住、内藤新宿といった四宿のような公認、非公認の岡場所が隆盛を極める事になる。殊に遊郭の多さに対しては来日した外国人が例外なく驚嘆し日記にしたためる程であった。
時代が下るごとに女性の人口も増えていくが、他の都市と同じように江戸の人口に於ける男女比率がほぼ同率になるのは幕末になってからである。
江戸に限らず平和が二百五十年も続いた日本では多様で独特な文化が花開き、鎖国政策と相まって現在の日本文化の代表である歌舞伎や俳諧、落語などの大衆的な文化が栄えるが、これはあくまで町人の文化であるのが面白い。(商業都市で町人が人口のほとんどを占めていた大坂と違い、巨大な城下町=行政都市である江戸の人口の半分近くが武士である)
ただし、戯作や浮世絵の創作、三味線や生け花などの芸事に手をだした武士も少なくはなかった(特に武家に好まれたのは骨董、釣り、園芸の三つだが、凝り出すと家を傾ける場合もあったという)。余芸が高じて、絵描きや原稿料で生計を立てるに至った侍もいた程である。しかし、江戸期には仮にも文武(儒教と武芸)に精進すべき侍が「低俗」な趣味や副業に熱中することはあまり好ましいことではないと見られたため、気楽な庶民と違って余り大手を振って習い事に専念することは出来なかった模様である。この風潮は女性にも影響し、戦国の世とは異なって武家の女性が手習いを受ける風潮は概ね否定される方向にあった。
江戸時代後期に入って日本経済が滞ってくると、傘張りなど内職で口を糊する武士も増加するのであるが、やはり武士の本懐を遂げられぬと云う鬱屈した空気は外国船の到来から始まった攘夷運動と絡みつき、そのまま明治維新へと繋がる。
また、江戸では国学、石門心学、蘭学などの学問も大衆化し、百姓や町人が武士と肩を並べて学び議論した(このような在野の学問に身分の差別はなく、学識があれば百姓も侍もみな平等であった)。このように庶民階級が文化や学問の中心となったのは、近代以前では稀な現象である。これは江戸時代の日本の識字が高く、幕末ともなると庶民の大半が文字を読めるほどに教育が普及していたことが関係している(ただし当時の識字率を数%とする資料もある。これは、公式文書を差し支えなく理解できる者が少なかったという意味である。当時の公式文書は難解な変則漢文とくずし字で書かれていたため、漢字の知識に乏しい庶民が理解できるものではなかった)。
江戸時代は全体的に寒冷な気候であった為、大規模な飢饉が何度か発生している。東日本が飢饉に見舞われるたびに、全国各地から物資が集まる江戸は餓死に瀕した人々の逃げ場となった。貧民が地方から大量に流れ込む江戸の住環境は劣悪なものであったらしく、遺骨からは、栄養失調やそれによる病気で死んだ人も多かったことが伺える。
そのような側面はあったが、江戸時代の江戸は正しく「文化の中心」の代表格であり、現代でも人々を魅了し続けている。