スピードシンボリ
すぴーどしんぼり
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概要
スピードシンボリは1963年5月3日生まれ、父ロイヤルチャレンヂャー・母スイートイン。通算43戦17勝。息の長い活躍から「老雄」「不死鳥」と呼ばれた。主戦騎手は野平祐二。
1965年にデビューし、1966年クラシックでは京成杯を勝ってその候補となるが、皐月賞は21着、ダービーでは8着といいところがなく、後年主戦の野平は「ダービーにこだわったために、無理な出走をしてしまった」と振り返っている。夏場は休養し、秋に京王杯オータムハンデキャップで2着と好走すると、続くセントライト記念で3着と優先出走権を得て、菊花賞ではナスノコトブキのロングスパートを追い、追い込みで並んでゴールインの接戦となるが、僅差の2着、年末の有馬記念は3着と惜しいレースだった。
翌1967年は本格化し、年明け初戦のアメリカジョッキークラブカップ、続く目黒記念・春(当時目黒記念は春・秋2回施行されていた)と重賞を連勝。迎えた天皇賞・春では単勝1.8倍の1番人気の支持を受け、レースも内ラチ沿いで粘ったカブトシローをアタマ差かわして優勝し、GI級レース・八大競走初制覇を果たした(なお、当時は天皇賞は勝ち抜け制度があり、一度優勝してしまうと二度と出走できなかった)。余談だが、菊花賞でスピードシンボリを下したナスノコトブキはこの天皇賞・春で故障し、その療養中に敗血症を起こして落命してしまった。
春の天皇賞を制したあと、続いて日経賞(当時は6月中旬に行われていた)も快勝、ここで馬主・和田共弘は当時としては珍しい海外遠征を敢行、アメリカのワシントンDCインターナショナルステークスで5着、帰国し有馬記念4着となるが、天皇賞・春優勝が評価され1967年度の年度代表馬を受賞。
1968年はスランプに陥り不振で、この年は重賞でもアルゼンチンジョッキークラブカップを勝ったのみで年末の有馬記念で3着。しかし1969年に復活、アメリカジョッキークラブカップ3着のあと、目黒記念・春、ダイヤモンドステークスと重賞を連勝し2度目の海外遠征を敢行。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスで5着・凱旋門賞では11着と勝利はつかめなかったが、帰国してついに4度目の出走で有馬記念を勝つ。
1970年、旧年齢8歳でも衰えを見せず、年明けのアメリカジョッキークラブカップをレコード勝ちし、その勢いで宝塚記念をレコード勝ちした後、秋の毎日王冠は3着、ハリウッドターフクラブ賞は不良馬場がこたえて7着と衰えたかと思われる中で年末の有馬記念に出走。このレースをもって現役引退が発表される。
そしてレースは後方待機からだったが、3コーナーあたりから徐々に進出、最後の直線で先頭に立つと、そのまま押し切って1着でゴールイン。史上初の有馬記念連覇を果たし、また、史上3頭目の同一年グランプリ連覇、かつ史上初のグランプリレース(宝塚記念・有馬記念)3連覇(3連勝)達成だった。
引退の手土産に2度目の年度代表馬も受賞(隔年での年度代表馬選出も史上初)、有馬記念では2年連続、アカネテンリュウ(1969年菊花賞馬)を凌ぎ優勝している。
8歳馬(現表記7歳)によるGI制覇は、30年近く後にようやくオフサイドトラップ(1998年天皇賞・秋)やタップダンスシチー(2002年ジャパンカップ)、ストレイトガール(2016年ヴィクトリアマイル)が達成しているが、当時では破格の偉業だった。その後スピードシンボリの歳を上回る現表記8歳のGⅠ勝利はカンパニー(2009年天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ)が達成している。
3歳から7歳までGI(当時はグレード制導入前)の第一線で活躍(連対相当)し続けた馬は現在でも皆無とされ、また重賞12勝は現在もオグリキャップ・テイエムオペラオーと並ぶ最多タイである。
引退後は種牡馬入りしたが、産駒はステイヤーズステークスを勝ったピュアーシンボリなどにとどまり、GⅠ級の馬は出せなかったがシンボリルドルフの母の父としてその名を残した。1989年老衰により死亡。死の翌1990年に顕彰馬に選定された。