概要
CV:原優子
アニメ「ウマ娘プリティーダービー season2」に登場する架空のキャラクター。モチーフとなった競走馬は「ダイユウサク」と思われる。
名前はモチーフ馬の「ダイユウサク」からのもじりと、麻雀役の「大三元」を掛けたものと思われる。
特にライブ会場限定CDに収録されたカバー楽曲「走れウマ娘」の原曲である「走れコウタロー」の歌詞の、
「穴馬は、あっ!と驚くダイサンゲンという結論に達したのであります」
「これはビックリダイユウサク!」
を見事に引っ掛けている。
※堺アナは他にも85年天皇賞(秋)の「あっと驚くギャロップダイナ根本康広!」といった、雑誌に掲載される程の名実況を残している。
劇中では第3話にてメジロマックイーンの有馬記念の回想にて登場。ゴール前でマックイーンを差し切り、勝利を掴んだ姿が描かれた。
次話の第4話にも登場。有馬記念を勝った事からか、自信満々で大阪杯に挑むが、結果は大惨敗。勝ちを掴んだトウカイテイオーが観客席に手を降る中、息を切らしたイクノディクタスの遥か後方で自爆攻撃でも食らったかのような姿でぶっ倒れていた…
第5話の天皇賞(春)にも出走。マックイーンの落鉄を心配そうに見ていた。
競走馬「ダイユウサク」
(※馬齢表記は当時のものを用いる。(現表記+1歳))
父はノノアルコ、母はクニノキヨコ、母父はダイコーダー。主戦騎手は熊沢重文(南井克巳も1回騎乗)。
元々は馬主の孫の名前から「ダイコウサク」とする予定が、馬名登録の際にコをユと間違えて書き込んでしまい「ダイユウサク」となってしまった経緯を持つ。
なお、この字を書いたのは主戦の熊沢重文騎手だったことが2023年の熊沢騎手の引退式にて件の橋元幸作氏から語られた。
遅くなった初勝利
競走馬としては遅生まれで、更には生まれ持った虚弱体質から調教でも他馬を追うことが出来ず、デビュー戦は遅れに遅れて1988年の秋4歳時。この時はもう未勝利戦も終わってしまっており、1勝クラスのレースに出るしか無く、デビュー戦は11着の惨敗に終わる。
その後も一縷の望みをかけて11月に福島で行われる4歳未勝利戦に挑むもまたもや惨敗。
この結果を受けて陣営は乗馬転用を考え始めるが、「体調さえ整えばまだ走れるのではないか?」と考え、現役を続行。
すると翌1989年3月の中京での400万下で初めて掲示板入りを達成し、次走は8着になるものの、その次の新潟での400万下で念願の初勝利を飾った。
好走、善戦、そして有馬記念へ…
その後は12月まで毎月走って好走を続け、コツコツと賞金を稼いでゆく。9月の阪神での900万下では芝1200mのコースレコードを更新する走りを見せ、年末12月の逆瀬川S3着を最後に疲労を抜くため長期休養に入った。
なお初勝利から12戦を走って4勝、掲示板を外したのはわずか2回となかなかの戦績。
心配されていた虚弱体質も徐々に改善していった。
翌1990年はCBC賞から復帰。格上挑戦であったが4着と善戦。その後はジュライSを4着、セントウルSを3着と好走する。そして3勝クラスのムーンライトHCにて勝ち鞍を上げ、遂にオープン入りを果たす。
10月の天皇賞(秋)で初めてG1へと挑戦するが、結果はヤエノムテキの7着に終わる。
翌年1月の金杯(西)(現G3京都金杯)で初の重賞勝利を上げる。
その後も重賞で好走を続け、11月のマイルCSでは初のG1での掲示板入りを果たす。
この結果を見た陣営は当初、次走をスプリンターズSに定めていたが、内藤調教師は「オープン特別をもう1勝すれば有馬記念に出られるかも知れない!」と進言。その熱意に熊沢騎手、平田厩務員は押され、12月の阪神競馬場新装記念競走にダイユウサクを出走させ、見事に勝利を掴んだ。
後はJRAからの推薦を待つのみ。運命の時は近づいていた。
運命の有馬記念
遂にJRAからの推薦を受け、有馬記念への出走が確定する。
ここで少し余談を挟む。
本番一週間前、担当の内藤繁春調教師は「5枠に選ばれたダイユウサクが有馬を勝つ」という夢を見た。
「これは正夢かも知れない!!」と思った内藤師は知人に「ダイユウサクの馬券を買ってくれ!外したとしても弁償するから!!」と勧めていた。
そして有馬記念の抽選会。ダイユウサクが選ばれたのは「5枠8番」。
「これは勝つ!絶対に!!」そう思った内藤師は馬主に「ダイユウサクはこれ以上無いぐらいに絶好調です。当日は是非中山へいらしてください!」と自信満々に連絡を入れた。
馬主は根拠のない謎の自信に困惑しつつも、当日は忘年会で出席できない自分に代わってディズニーランドへ向かう予定があった娘と孫に「ついでに有馬記念も見てきてくれ」と頼んだ。
そしてやってきた有馬記念。
一番人気に推されたのはメジロマックイーン。2番人気は善戦ホースナイスネイチャ、3番人気は繰り上がりではあったものの天皇賞(秋)を征したプレクラスニーと順当に続く。特にマックイーンは単勝オッズ1.7倍とほぼ確実にこの馬が勝つだろうと予想されていた。
対してダイユウサクは14番人気、単勝オッズは137.9倍と殆ど見向きもされていなかった。
そんな中でも内藤調教師は勝つ気満々で、表彰式に出るべく正装で登場していた。
そして本番。
序盤はツインターボが例の如く大逃げ。
マックイーン鞍上の武豊はハイペースで逃げるターボの失速を見越してレースを進める。
そして終盤第4コーナー、失速するターボを横目に先陣を切ったのはプレクラスニー。1着入線から斜行で降着18着となった天皇賞(秋)でのリベンジを誓うマックイーンは最終直線で追撃をかける。これはもうこの2頭で決まりか…?誰もがそう思った瞬間だった。
突如として強烈な末脚で迫る一頭の馬。5枠8番ダイユウサクだ。
ダイユウサクはゴール前で失速するプレクラスニーと追いすがるマックイーンを差し切ってゴールイン。タイムは当時のレコードである2分30秒6。この記録は後にシンボリクリスエスが更新するまで12年間破られなかった。
なお、配当は単勝13790円。この記録もG1/Jpn1では現在でもトップクラスに入るほどの高配当である。
フジテレビ実況の堺正幸アナも「これはビックリ!」と言ってしまうほどの大勝利に半信半疑でTVを見ていた馬主は大興奮。待機所のバスに乗っていた平田厩務員は興奮のあまり天井を殴りつけてしまうほどだった。
その後
その後も現役を続けたダイユウサクだが、その次の産経大阪杯では休養明けのトウカイテイオーの前に6着と破れ、天皇賞(春)では有馬で破ったメジロマックイーンの9着と大敗。
以後は掲示板にすら入ることが出来ず、スワンSの15着を最後に現役を引退した。
しかしながら、あの有馬記念での鮮烈な勝利は人々の記憶に残り、競馬ファンからは「史上最強の一発屋」などと称された。
引退後は種牡馬入りするが、目立った産駒を出すことが出来ず1998年に種牡馬を引退。
その後は同年に設立されたうらかわ優駿ビレッジAERUに功労馬として繋養され、後にやってきたウイニングチケットやニッポーテイオーらと共に余生を過ごした。
余談
ダイサンゲンという競走馬は実際に存在しており、1999年に生まれ美浦・中島敏文厩舎から2001年に札幌競馬場でデビュー。
しかし3戦して未勝利で翌年に地方競馬・高知に移籍。ここで1戦して未勝利で引退している。
関連タグ
ウイニングチケット(ウマ娘):モチーフ馬は晩年期を共に過ごした。