概要
CV:屋良有作
原作では自ら「キテレツ斎」と名乗っていたが、アニメ版では「奇天烈斎(キテレツ斎)」は通称で、本名は「木手英之進」幼名は「利吉」とされている。
世界で初めて飛行機を作るが「人々を無用に騒がせた」罪で捕えられ、自らが作り上げた様々な発明も「世の人々を誘惑して悪しき堕落の道へと誘う、仏道から外れし妖術」扱いされてしまい、死ぬまで座敷牢で軟禁されてしまう。(いわゆる獄死)
その最期は「度の無い役に立たぬ眼鏡をかけ、何も写さぬ水を白紙に手前勝手に塗り込み、そして乾いた紙を綴じ、できた白紙の冊子を童のように喜んで眺め、後生大事に抱えて死んだ」という、狂人としての終焉だったと伝えられている。
のちの世を生きる子孫縁者には反面教師とされ、また彼らキテレツ斎の子孫は「狂人(罪人)の子孫」として隣組(ひいては庄屋・代官・殿様)から「狂人の子孫である以上は、また危ない事をするに違いない」と決めつけられ、苛烈な監視や迫害に晒される事も珍しくはなかった。(儒教思想がガチの現役であった江戸時代では珍しい事ではない)
かくて以降の木手一族には「人目を引くような事をしてはいけない」「周りの人と違う発想をしてはいけない」「発明などもってのほか。新しいことを考える事は不幸なことである」といったような保守的な安定志向の戒めが、絶対遵守の家訓として伝わるようになった。
木手英一がキテレツ斎の事を知ったのも、元々は両親からの説教のネタとしてである。
20世紀の人たちでも発明できないようなとんでもない発明の数々を発案できる天才だったが、上記の経緯のためそのほとんどは歴史に残っておらず、彼自身の存在も歴史の陰に埋もれている。
しかし当の本人は発明品を悪用しようなどとは欠片も考えず、ただひたすらに自分の中の知恵で人々を喜ばせたい、豊かにしたいと願い続けた、真面目で優しい人柄であった。
実は座敷牢の晩年において「特殊なフィルターを通さないと見ることができない『偏光染料』によるインク」と「そのインクを見るためのフィルターを備えた眼鏡『神通鏡』」を発明していた。
キテレツ斎は神通鏡を用いて偏光染料を使い、自らの発明を秘匿するとともに、適切な時代に自らの遺志を継いでくれる心ある子孫に自らの偉大なる遺産が残るように努めた。
彼は狂人などではなく、誰に認められずとも、最期まで人々の幸せを願った発明家としての一生を全うしたのであった。
こうして遺されたのが奇天烈大百科であり、木手英一の発明の源泉となっている。
なお大百科の冒頭には、これを扱うための注意点が重要事項として記されており、その中には「大百科の存在と内容は秘して絶対に表には出すな。出せば災いに見舞われる(意約)」と記された。これは大百科の秘密のみならず、それに気付いた子孫(劇中では英一)を自らも受けた不遇(世間を騒がす→逮捕・受牢→獄死)から守るためのものでもある。
英一が過去へと遡る話に於いては度々登場しており、子孫の危機を幾度となく救う。
(ただし原作では航時機登場の1回だけ)
アニメ版最終回でも重要人物として登場した。
キテレツ斎と英一の技術力について
物語開始時、英一はこの時点で2脚歩行型ロボットの試作実験中だった。完成には程遠かったが、原作開始の1974年当時はどんな最先端ロボット工学も行き着いていない水準であり、一介の小学生がたった1人で作り上げられるようなものではない。
イメージからすると英一はキテレツ大百科に記述されているキテレツ斎の発明品を再現して利用しているだけと思われがちだが、この点から見ると英一は間違いなく天才である(よく出木杉と比べられがちだが、英一から見ると出木杉はあくまで一般人の範疇の秀才にすぎない)。
その英一をしてコロ助の製作時には「こんな方法があったのか!!」と驚きの連続だった。ただ、そう言う発言は逆に言うと、キテレツ斎の技術は英一に理解できないものではない。
一方、キテレツ斎の発明品には、特に電子機器分野について半導体が使用されている。それも古くから存在したゲルマニウムではなく現在(1950年代後半以降)のシリコン半導体である。
このことは航時機初登場の際に明かされていて、キテレツ斎に未来に半導体が存在することを教えたのは英一である。英一が航時機を製作して江戸時代に来たはいいが故障で帰れなくなり、通りかかったキテレツ斎が修理したことがきっかけだった。
折しも営団6000系電車の量産が1971年から開始され、特に日本の半導体技術は飛躍的に進化した。
(日本がバブル崩壊以降失速したのはカスタムICの分野であって、「素材としての半導体」は現在もほぼ世界一である)
コロ助など今考えるとどう考えても1974年どころか2004年以降の半導体技術が必要なのだが、航時機が再現できるならいくらでも入手手段はある。
なのでキテレツ斎にとって航時機は「未来の少年(子孫)が持ってきたもの」という認識のはずである(おそらくキテレツ大百科にもかなり初期のものとして記述されている。この為、航時機は英一とキテレツ斎のどちらが開発したものか、いわゆる鳥卵論争になりがちである)。
だが、少なく見積もっても2世紀は先の技術を取り入れて自身の発明品を完成させている点は、キテレツ斎も間違いなく天才である。
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モデル
浮田幸吉:成果と成り行きのモデル。江戸時代(田沼時代)の表具師。鳥人幸吉と呼ばれる。備前岡山藩(現在の岡山県南東部)の人物。1785年に旭川にかかる京橋の欄干から自らが表具師の技で作り上げた翼で滞滑空してみせた日本最初の鳥人間。しかし、キテレツ斎同様に即座に役人に捕えられ受牢する事となった。ただ、キテレツ斎とは異なり藩主池田家は幸吉の才を惜しみ、苦悩の末に藩内処払い(追放)のみで許される事となった(その自由を奪わぬままで藩内に留め置く事は徳川幕府に謀反の嫌疑をかけられる可能性があったため、池田家に残された選択肢は「死刑」か「幽閉」か「追放」しか無かった)。藩を追われた後は駿河に移り住み木綿商人となるも空への憧れを抑えきれず、駿府にて再びの飛翔を遂げ捕えられた。その後は再びの飛翔により打ち首になったとも、再び処払いとなり遠江見附(現在の磐田市)に流れ、監視下の中で天寿を全うしたとも伝えられる。なお幸吉の岡山処払いは1997年に当時の池田家当主(昭和天皇の四女である池田厚子の夫。つまり令和においては上皇様の義兄かつ天皇の義伯父にもあたる)によって赦免されると共に功績をあらためて認められ、その名誉は回復された。
平賀源内:成り行きと末路のモデル。江戸時代(田沼時代)の発明家…というかマルチクリエイター。讃岐志度浦(現在の香川県さぬき市)の人物。様々な発明発見を行ったが(どれもこれも中途半端だったために)全く認められず、最期には精神を病んで寄行に走り獄死する事となった。
田中久重:生きた年代的なモデル。江戸時代(幕末期)に「からくり儀右衛門」の通称でも知られる大発明家。筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)の人物。からくりの制作をはじめとして様々な発明を行った。しかしキテレツ斎とは異なり、様々な名家や各地の藩主や要人にも覚えめでたく頼りにされ、明治に至っては自身の機械製作所を設立した。これが後の東芝となる。ちなみに上述の浮田幸吉や平賀源内に対しては、捕えられたことや処刑に至った事、そんな境遇に自らを追い込むようなコミュ力の弱さや状況判断の稚拙さ、さらにはそのために研究を後世に残せなかった事を理由として(それこそ後の木手一族がキテレツ斎にしたのと同様に)かなり本気でディスっている。(キテレツ斎のモデルに田中が挙げられたのは前時間枠番組の当時のスポンサーに、引き続きアニメ枠を継続させる事を説得するためのネタ としての側面が大きい。当時の同社は前々番組である『タッチ』のヒットで自社番組の存在感が薄れるのをとても警戒しており、この枠のアニメ外への転換を、スポンサーの自主降板や件の番組の廃止をチラつかせ、かなり強く要望していた)