概要
1972年10月21日、町田市体育館でジャイアント馬場によって旗揚げされる。
『明るく、楽しく、激しいプロレス』、『王道プロレス』をスローガンとして様々な名勝負を繰り広げてきた。
現在は『明るく、楽しく、激しく、新しいプロレス』、『パッケージプロレス』『プロレスLOVE』を看板として掲げている。
ベビーフェースとヒールの対決を軸とした、勧善懲悪的な入り込みやすいプロレスが特徴。
アントニオ猪木の「新日本プロレス」は「日本人対決」「異種格闘技路線」を展開していたのに対し、馬場率いる「全日本プロレス」は「日本人レスラーVS外国人レスラー」の路線を全面的に推し進めて来たのが特色。これは馬場が当時、世界最大勢力を誇っていたプロレスプロモート連盟の「NWA」に旗揚げ直後に加盟したためである。また、旗揚げ当初から「日本テレビ」と言うビッグスポンサーが付いていたのも大きな要因だった。
1992年、ジャンボ鶴田が病により一線を引いた後は三沢光晴、小橋健太(現:建太)、川田利明、田上明といった「全日四天王」(後に秋山準を加えた“五強”)がプロレスファンを沸かせてきた。
選手の大量離脱
全日本プロレスは所属選手の大量離脱を2度経験している。
一度目の大量離脱
1990年に天龍源一郎を筆頭に多くのレスラーがメガネスーパーの設立したSWSに移籍し、団体存続の危機に陥る。
しかし、完全無欠のエース・ジャンボ鶴田ら「正規軍」と三沢光晴ら「超世代軍」との激しい戦いが展開され、王道プロレスは揺らぐ事無く再び立ち上がったのである。
二度目の大量離脱
1999年、ジャイアント馬場の死去により、三沢光晴が社長に就任した。
これまでの全日ではありえなかった入場での演出、大規模大会での大胆なマッチメイク等の様々な新機軸を取り入れてきたが、方針の違いから故・ジャイアント馬場夫人である馬場元子側と対立する。
その結果、三沢ら26名の選手とスタッフが大量に全日を去る事に・・・二度目の選手大量離脱である。
そして、『プロレスリング・ノア/NOAH』が旗揚げされた。
全日本に残った選手は川田利明、渕正信、マウナケア・モスマン(現:太陽ケア)、スタッフ数名といった状況であったが
川田らの奮闘、天龍源一郎を始めとする他団体選手、外国人レスラーの参戦で何とか団体運営を続けてきた。
武藤全日本
2002年、新日本プロレスを退団した武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシン、カズ・ハヤシが入団。
そして、9月30日に武藤は全日本プロレスの社長に就任する。
その後は『明るく、楽しく、激しいプロレス』に”新しい”を足した『明るく、楽しく、激しく、新しいプロレス』『王道プロレス』から~演出はなくともエンターテイメントとして成り立つプロレス~『パッケージプロレス』
という新しいモットーを提唱し、ここ最近は旗印を『プロレスLOVE』として現在に至っている。
諏訪魔や真田聖也、浜亮太ら若い力を輩出、安定した人気を獲得した武藤全日本であったが、2011年5月29日に団体を揺るがす大事件が起こった。
その日、ブードゥ・マーダースのTARUが試合前に暴行事件を起し、彼から暴行を受けたヘイト(平井伸和)が試合終了後に急性硬膜下血腫を起し倒れるという事故が発生。
事態を重く見た会社はブードゥを解散させ、TARUやその場に居た稔(田中稔)、MAZADA、KONO(河野真幸)を無期限試合出場停止という厳罰を課した。
(その後の同年11月22日、TARUとMAZADAは兵庫県警により傷害罪で逮捕。罰金刑に処された。)
さらに6月8日、武藤も社長職を『ケジメ』と称し辞任、東京スポーツを取材拒否に(武藤は社長の座から降りるのみで、所属選手としては継続)。
この影響を受け、全日本マットの顔とも言われた和田京平レフェリーも退団。全日本を取り巻く状況が大きく変化した。
内田全日本
ヘイト暴行事件から一カ月後の2011年6月、当時取締役を務めていた内田雅之氏が社長に就任。選手とフロントとの関係強化、信頼回復に努めるとともに、団体の武藤カラー脱却を目指していくことになる。
新人育成面ではここ最近中国や台湾、韓国などアジア方面の選手発掘を行っている。
また、興行でも武藤時代から台湾での大会が恒例化しており、地元のプロレス熱上昇に一役買っている。
これまで他団体とあまり関係を持たなかった全日本だが、2011年10月の両国大会でベルトが総流出したこともあり、それ以降は王座奪還を目的に積極的に他団体進出を行っている。
2012年には大森隆男が11年ぶりに全日本所属復帰した。
主な来日外国人(順不同)
カンナム・エクスプレス(ダグ・ファーナス/ダニー・クロファット)
といった大御所からグリーンボーイまで多くの「ガイジン」レスラーが来日し、馬場やジャンボ鶴田、天龍源一郎等の日本陣営との激しく且つ熱いファイトが展開された。