石田三成(Fate)
いしだみつなり
概要
『Fate/Grand Order』に登場するキャラクター。
イベント『ぐだぐだ新邪馬台国』における主要人物の一人。
歴史に名を残した人物の魂だが、同特異点の性質上、サーヴァントなのかは不明。
何故か蘇ったクコチヒコに協力し、「新邪馬台国治部少輔」として暗躍する。
真名
秀吉にその才を見出されて配下となり、太閤検地や刀狩りといった政治面で活躍した。
秀吉の死後は、豊臣政権の実務を担った五奉行の一人に抜擢され、秀吉の死後は豊臣家を守るべく政権の奪取を狙う徳川家康の排除のために奔走するが、結局それは叶わず家康と望まぬ和解をし、五奉行から外されてしまう。
その後、三成は豊臣の復権と家康打倒を目論み、毛利輝元を西軍総大将として関ヶ原の戦いへと突入。しかし、西軍の統率は全く取れておらず、東軍と内通していた吉川広家や、無理矢理協力させられた島津家は積極的に協力せず、豊臣政権に不満を抱いていた小早川秀秋の裏切りが決定打となり、次々と裏切りが発生し敗走。追捕隊に捕縛され、41歳という若さで六条河原で斬首された。
人物
一人称は「私(わたし)」。
灰色の羽織に、黄色い縁のメガネをつけた侍。どこまでも生真面目な杓子定規で、自分に利がなくとも戦や政治のマナーを遵守しようとする等、良くも悪くも非常に律儀。
政治家としては非常に有能な人物だが、他人はとことん信用せず、彼が信じる人物は秀吉一人。
そうした主を至高と仰ぎ、その他全てを見下す価値観を隠そうともしない振る舞いは、当然他者の好感を得られず、秀吉やノッブからも「あいつ友達出来ないだろうな〜」と言われていた。本人もそれを一切意に解さなかった事が、周り全てから見離され最期を迎えた原因の一つともとれる。
自らが頂点に立つのではなく、補佐役として輝ける人物であり、本人もそれは痛感している。
関連人物
生前
自分がただ一人信じ続けた主にして天下統一を成した関白殿下。
ノッブによれば、秀吉が子飼いの武将としてつれてきた子供の一人のようで、まるで自分の子供のように可愛がっていたという。ただ晩年の彼の暴走に対しては絶句する事も多くなり、決して唯々諾々と従うばかりではなく諫言をしてはいたが止めきれなかった。
三成の軍師で、彼に「過ぎたるもの」と詠われた稀代の軍略家にして武将。
以前仕えていた筒井家の不義に怒り放浪していた際に、三成に己の知行(領地)半分を与えられ召し抱えられ、以降は死ぬまで彼に忠義を尽くした。彼の最大の理解者の一人であり、融通の効かない性格を嗜める役でもあったという。型月世界での詳細は不明。
自身と同じく秀吉の子飼い武将であり一番の親友。
後に重い病を患って周囲からも忌避されるようになるが、三成は変わらず彼と接し続け、関ヶ原の戦いでは勝機が薄いことを理解しつつも、三成との友情を重んじ共に戦う道を選ぶ。
上杉家の武将にして内政にも優れた名家老であり、上杉謙信亡き後の上杉家を支えた傑物。
お互い似た境遇であったことから、出会って以降も交流を深め親しくなったとされており、関ヶ原の戦いでは西軍として共同戦線を張ることとなる。
秀吉から「表裏比興の者」称された稀代の謀将や彼の嫡子、三成との親交が深かった親子、真田家に対する豊臣家の大名格の優遇は三成の言によるもの。豊臣政権時代に三成が真田家との取次を担当していたことから、何度も手紙のやり取りをしており、それらは『真田家文書』として現在も残っている。関ヶ原の戦いにおいても、昌幸が三成側につき、石田と上杉の仲介をしていたことがわかる。信之が家康側につき、家康の息子で徳川秀忠軍に属して上田城攻めに参加する。
秀吉亡き後、関ヶ原の戦いで敗れた最も因縁深い憎き敵。
共に秀吉の子飼いだった武将だが、仲は非常に悪く、関ヶ原の戦いで徳川側に付いていた。
豊臣五奉行の同僚達。彼らとの関係性は現状不明。
主君の主君。当時はまだ幼かったためかあまり認識されて無かったが、三成ではなく「佐吉」としてなら何となく覚えている模様。三成の方は「かつての主君と言うだけで殿下に大きい顔をする」と言うことが気に入らない模様で、ノッブの側も良い印象は持っていない。
秀吉に使えていた大商人。主と不仲になり権力を増していく様を良く思わなかった。
豊臣政権下時代の同僚。尤も仲はあまり良くなかった模様。
だが一方で、どちらも主君への忠義に厚く治めた地の領民たちから慕われていたという共通点があり、長可も三成とはまた別の理由で周りから嫌われていた。
主君の側室。彼女の事も関ヶ原に加わらなかったとして侮蔑していたが、逆に向こうからも将としての資質の乏しさを見透かされていた。だが、本心ではお互いのことを家族同然に思い合っており、終盤では己の身を顧みずに茶々達を救う場面も。
主君の命令で郎党根絶やしにした主君の甥。及びその側室。
もしかしたら自身の上司になったかもしれない。事実秀次個人への評価は高めであり、次期当主に決まった際には嬉しそうであった。それ故「天下のため仕方がない」と言い訳をしながらも、当時「流石にそれはあんまりです!」と秀吉に食ってかかっており、後悔はしている模様。