概要
首相在任中に中華人民共和国との戦後処理問題を解決し、日中国交正常化を実現。台湾と断交した。緻密且つ大胆な政治姿勢から、「コンピューター付きブルドーザー」との異名を取った。
ロッキード事件による政界引退後も、田中派の政治家を通じて影響力を行使し、「闇将軍」の異名で呼ばれた。現民主党の田中真紀子議員は、実の娘。
一度会った人は決して忘れない、「できる」と断言したことは必ず実行する、これと見込んだ人物には助力を惜しまないといった人柄から人望が極めて篤く、田中がかわいがった後輩政治家には、金丸信、竹下登、小沢一郎、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三、野中広務、渡部恒三など、後の政界において重きをなした人物が少なくない。
毀誉褒貶の多い人物で、「日本の正治を金券で汚染した」と非難された一方、驚くほど人気のある政治家でもあった。
ほかの政治家にはない庶民性、大衆性を持つからだろうか。
雪と不順な天候に苦しむ日本海側の人々、高度成長を底辺で支えた集団就職組などは根強い「角さんファン」であった。
田中角栄の後援会は「越山会」と呼ばれたが、角栄自身「越山」という号を持っていたことはあまり知られていない。
16歳で上京し、住み込み店員しながら、夜学で資格をとり、昭和11年に土建会社を設立した。
兵役で中国へ行き、大病で死線をさまようが、奇跡的に助かり、除隊後、東京に設計事務所を開いた。
家主の一人娘、はな子と昭和17年に結婚したが、妻に三つの誓いをさせられた。
第一、出て行けと言わないこと。
第二、足げにしないこと。
第三、将来、二重橋を渡る日があったら同伴すること。
「それ以外はどんなことにも耐えます」と妻に言い渡された。
昭和22年、新潟三区から28歳で代議士に初当選。
料亭の女将の紹介で実力者、吉田茂と知り合い、「吉田学校」の末席に連なった。
生徒には後に首相になった池田勇人、佐藤栄作といった大物がいたが、23年、「石炭疑惑」に連座して逮捕された。
片山哲内閣が進めていた石炭炭鉱に反対する炭坑業者から百万円を受け取った、という容疑であった。
田中は獄中から立候補して二位で当選し、裁判は二審で無罪になった。
「角栄はいつも刑務所の塀の上を駆け回っている男だ」と師、吉田茂に評された。
昭和32年、田中は39歳で郵政大臣に就任した。
NHK番組で浪花節をうなって視聴者を驚かせたが、普段のダミ声は浪曲を歌っていたためであろうか。
しかし、政治家・角栄となるとロマンチックな顔は消え、「コンピューター付きブルドーザー」に変貌、緻密な計算のもと現ナマとポストを餌に味方を増やし、政敵は蹴飛ばす。
その手腕を買われて大蔵大臣に抜擢され、自由民主党幹事長を務めた後、「日本列島改造論」を掲げて、昭和48年、自民党総裁選で勝ち、首相の座に就いた。
政権に就いた田中は中国との外交関係樹立を最重要課題に掲げた。
昭和47年9月、「日中国交回復」を内閣の最重要課題とし、大平正芳外務大臣をともなって北京を訪問、毛沢東主席、周恩来首相と会談した。
交渉の結果、「復交三原則」に基づき調印した。
9月25日午後6時半(日本時間7時半)に北京の天安門広場で周恩来首相主催の晩餐会が開かれたその翌日、田中は漢詩を発表した。
國交途絶幾星霜。 国交途絶 幾星霜
修好再開秋將到。 修好再開 秋将に到らんとす
隣人眼温吾人迎。 隣人 眼 温かにして吾人を迎え
北京空晴秋氣深。 北京 空 晴れて秋気深し
北京の空港で作ったという。この詩に題は付けられていない。
田中は、この時、毛沢東に東山魁夷画伯の「春暁」(二〇号)を贈って、周恩来に杉山寧画伯の「韵」(二〇号)を贈り、その返礼は毛沢東からの『楚辞集註』であった。
米国にさきがけて中国との国交を樹立し、同時に台湾に対して外交関係の断絶を通告してしまった。
しかし、田中は訪中の前の8月にハワイでニクソン大統領と会談している。
表向きは「日米間の貿易不均衡是正」などと発表されているが、裏では「日中国交回復」の了解を取り付けたようである。
同年2月、ニクソン米大統領が突然、日本の頭越しに中国を訪問して毛沢東、周恩来と会談したことから、日本政府も中国政策の根本的な転換を迫られていた。
田中内閣は発足してからわずか85日目にして米国に先んじて中国と国交樹立を果たした。
昭和48年1月、北京に日本大使館が開設され、翌2月、東京に中国大使館が開かれた。
共同声明の第八項目にある「平和友好条約」の締結交渉は中国の主張する「反・覇権主義(ソ連に対する)」の条項をめぐって難航したが、昭和53年8月に調印された。
日中関係は多少の波乱を見せながらも発展しているが、これも「田中訪中」の成果だとされている。
昭和51年2月4日、米国上院・多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社が航空機売り込みの工作費として1000万ドル(約30億円)を極秘のうちに使っていた事実が暴露された。
証人として出席したロッキード社の会計管理人、アーサー・ヤング公認会計事務所のウィリアム・フレンドレーは「約700万ドルが、ロッキード社の秘密代理人だった児玉誉士夫に手渡された」と証言した。
公表した資料には、児玉の書いた領収書を英語に書き直した物のコピー、ヒロシ・イトーなる人物が署名した「ピーナッツ受領」の領収書など5点があった。
丸紅の伊藤宏専務2日後、自分の署名であることを認めた。
また、ロッキード社のアーチボルド・コーチャン副会長は「児玉に払った21億円のうちいくらかが国際興業社の小佐野賢治社主に渡った。丸紅の伊藤宏専務に渡った金は日本政府関係者(複数)に支払われた」と証言した。
政府関係者とは誰か? ロッキード疑獄は日本の政界を揺るがせた。
東京地検特捜部と警視庁の捜査によると、売り込み工作は昭和47年8月の田中・ニクソン会談で行われた。
ロッキード社からは3つのルートを通じて20億円から30億円もの金が流れた。
田中はそのうち丸紅ルートから5億円を受け取ったという。
全日空ルートからは共産党を除く与野党数十人の国会議員に贈られた。
しかし、児玉が病気を理由に入院して事情聴取ができなかったため解明されなかった。
昭和51年7月27日、田中は外国為替法違反などの疑いで逮捕された。
容疑は田中が昭和48年8月から7ヶ月間に4回にわたり計5億円を受け取った、というものであった。
東京地検は、田中を「総理の地位を利用した受託収賄罪」で追起訴した。
昭和58年10月12日の第一審判決は有罪(懲役4年、追徴金5億円)となった。
ピンチに追い込まれた田中を救ったのは2ヶ月後の総選挙の結果であった。
再び獄中から立候補した田中は過去最高の22万票を獲得してトップ当選した。
これは新潟三区有権者数の47パーセントを占めるという驚異的な数字だった。
「こりゃまさに百姓一揆だな」と田中は感激した。
しかし田中の熱心な支持者は「新潟三区」と「永田町における田中軍団」のみであり、一般国民やマスコミからは孤立していた。
長年の盟友、大平正芳が昭和60年に死去してから、田中の唯一の拠り所は「自派閥の拡大と院政の強化」となった。
このために飴とムチで目的達成のため狂奔したが、飴とは金とポストであり、ムチは田中派に入らないとその選挙区に対立候補を立てるという脅しであった。
何のための派閥拡大だったのだろうか。
政治力を誇示することでロッキード裁判に圧力をかけようとしたのか、あるいは再び首相の座に返り咲いてロッキード事件の怨念を晴らそうとしたのか。
ロッキード事件には謎が多いという。
田中は何かを隠しているのではないだろうか。
米国が田中をトップの座から追いだす理由は何か。
田中が首相時代にインドネシア、旧ソ連など訪問して積極的に展開した「石油資源外交」が、ロックフェラーに代表される米英・石油メジャーの逆鱗に触れたのだという。
ちなみに、事件の発端となった小包の届いた上院多国籍企業小委員会の委員長・チャーチ上院議員はロックフェラーのお抱え弁護士だった、という。
いずれにせよ、田中は自分の派閥を後継者に譲り渡す考えなど毛頭なく、ここに大きな問題が生じた。
田中派の二階堂進が昭和59年、自民党内の反主流派に担がれてトップの座を狙ったときは、これを押しつぶした。
しかし、昭和60年2月7日、竹下登が50人の代議士を集めて「派閥内の派閥」を結成した時、もはや田中にはこれを抑える力がなかった。
プライドの高い田中にはショックであった。
ウイスキーをがぶ飲みするようになり、この旗揚げから20日後に入院、軽い脳卒中という発表だったが、その後、入退院を繰り返し、平成5年12月16日、「今太閤」田中角栄は永眠した。
75歳であった。