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金錫源の編集履歴

2024-08-04 11:34:22 バージョン

金錫源

きむそぐぉん

大日本帝国陸軍および大韓民国陸軍の軍人・教育者・政治家。日中戦争や朝鮮戦争で活躍した。

概要

金錫源/キム・ソグォン(1893年9月29日~1978年8月6日)


朝鮮王国出身の大日本帝国陸軍韓国軍軍人日中戦争朝鮮戦争で活躍し、退役後は城南高等学校ソウル)の理事長を務め、国会議員も務めた。

日本名は金山錫源(かねやま しゃくげん)。

2002年に「民族の精気を立てる国会議員の集い」により親日派認定され、城南高等学校にあった銅像が撤去された。


来歴

生い立ち

1893年

9月29日、李氏朝鮮時代に金尚吉の二男として漢城(現在のソウル)で生まれた。


1897年

幼少期に日清戦争で日本側が勝利したことにより、下関条約で李氏朝鮮は清朝の冊封体制から離脱し属国ではなくなった。

朝鮮は日本の保護国となり、いずれは完全な自主独立国家となるために、第26代李氏朝鮮王の高宗が皇帝に即位したことで、国号が大韓帝国となる。


大韓帝国時代

1909年

大韓帝国武官学校生徒として日本に留学し、陸軍幼年学校に編入。韓国人学生の学生監・小倉少佐は金曰く酷く軽率横柄な人物で、金は良い成績を上げて見返そうと勉強に励んだが一般学科の成績が悪く下から数えた方が早いという状態だった。


1910年

昨年に併合急進派である安重根によって併合慎重派の筆頭であった伊藤博文が暗殺されたことにより、併合を求める運動が加速し大韓帝国は大日本帝国に併合される。

併合慎重派だった金は失意の日々を送ったが、自身が日本人より良い成績を上げることで韓国人の気概を高め、韓国人が決して劣等民族ではないことを証明しようと熱心に勉強に励んだ。


日本軍時代

1915年

5月、466人中432位の成績で陸軍士官学校を卒業。歩兵第61連隊(和歌山)に配属。

12月、陸軍歩兵少尉に任官。


1917年

陸軍歩兵中尉となる。約一ヶ月間満州に出征し、そこで初めて実戦を経験した。


1919年

ウッドロウ・ウィルソンがアメリカ連邦議会での演説で発表した「十四か条の平和原則」に影響によって朝鮮で三・一運動が起こり、朝鮮半島内の兵力では対処できなくなったため、日本本土からも増援部隊が派遣されたが、金は派遣要員から外された。


1931年

満州事変が勃発。陸軍大尉として出征し、馬占山軍と交戦。論功行賞金の700円を城南高等学校設立に使われることになり、朝鮮総督府に許可を求めたが、当時は私立学校が独立運動の震源地となっていたため、設立許可は出されなかった。


1937年

日中戦争が勃発し陸軍少佐としてして出征命令を受けた際に、当時の朝鮮総督である南次郎に城南高等学校設立を直談判し、南総督はこれを許可した。

その後、北支戦線へ従軍し、7月27日に1個大隊で1個師団の中国軍を撃破し行宮高地を占領。


1938年

2月22日、霊石県(山西省)で中国軍の右側背面を攻撃するが、金の大隊は突出してしまい中国軍に包囲された。金は中国軍にも聞こえるように大声で「今すぐ3千名の増援部隊が到着しするので安心して戦い、現陣地を死守せよ」と言った後、自分の部隊にだけ聞こえるよう「諸君、今日で最後だ。もう少し頑張って最後の突撃だ。持っている煙草を全部吸え。そして軍歌を声高らかに歌い、狂ったように踊れ。万歳を叫べ!」と告げた。日本軍の賑やかさに実際の人数より多く錯覚し、中国軍は撤退した。2個中隊で1個師団の中国軍を撃退した功績から、朝鮮人としては初の功三級金鵄勲章を授与され、金は朝鮮人兵士のヒーローとなった。


1939年

朝鮮へ帰還し、全国巡回講演を行った。


1941年

太平洋戦争が勃発。朝鮮人の青年達に学徒動員に参加する様に呼びかける講演活動を行った。


1940年

福山市広島県)の連隊に転属。


1941年

山東省へ転属。済南軍直轄の幹部教育隊長となった。


1944年

陸軍大佐に昇進。


1945年

平壌兵事部課長として終戦を迎えた。


1948年

大韓民国が成立。国軍の高級将校が不足したため外国軍出身の高級将校に決起が呼びかけられた。


韓国軍時代

1949年

1月、韓国軍に大佐として入隊し、第1旅団長に任ぜられた。

4月、准将に昇進し、第1師団長となる。ケソン近辺で北朝鮮軍との小競り合いが続く。

剛直で曲がった事が許せない性格だった金は、南北交易事件で当時の参謀総長だった蔡秉徳少将と対立し、李承晩大統領に直言するなどしていたが、それが李大統領の怒りを買って疎んじられ、予備役に編入された。

金は北朝鮮の不穏な動きを察し、テジョン義勇軍を組織した。


1950年

6月、朝鮮戦争が勃発。韓国軍から現役復帰を要請され、参謀長連隊長を自分で指名するという条件付きで現役復帰。

7月、首都師団長となる。金の元へは旧日本軍出身の韓国人が全国から集結し、実戦の経験があるため韓国軍としては例外的に練度の高い部隊となった。

8月8日、第3師団に着任。盈徳の戦い盈徳が陥落。

8月10日、北朝鮮軍興海に侵入し師団の退路が遮断された。アメリカ第8軍は海上撤退のため戦車揚陸艦を派遣した。金は砲兵隊に残った砲弾で攪乱射撃を加えるように命じ、海岸では数台の車両にヘッドライトを点けて坂道を登り、降りるときは消してを繰り返させ、増援部隊が上陸するように偽装させた。

8月16日夜から翌朝にかけ、金は一兵も残すことなく海上撤退を成功させ、マッカーサー元帥に称賛された。


1951年

陸軍本部付となる。しかしアメリカ軍の指示に従わないなど折り合いが悪かったのが災いし、部屋も机も準備されておらず閑職に追いやられた。


1956年

予備役に編入。城南高等学校の理事長を務めた。


1960年

国政選挙に永登浦区から無所属立候補して当選。国会議員を1期務めた。


1978年

8月6日、ソウルで死去(84歳)。


余談

  • 盧武鉉大統領時代、韓国の左派系市民団体により『親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法』(通称:反日法)によって『親日反民族行為者』と認定されて売国奴レッテルを貼られた(親日罪)が、彼らの親日基準は、恣意的、左派寄り、公平性が無いと指摘されている。
  • 長男の金泳秀陸軍大尉は、1945年にフィリピン戦線で戦死しており、彼の御魂は靖国神社に祀られている。金は晩年に旧日本陸軍将校の親睦団体である『偕行社』の総会に招かれた際に、「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶している。
  • 金錫源は日本軍の高位軍人であったが、日本人より活躍して優秀性を示すことが韓国人のためになるという考えは浅はかだったとしている。

関連タグ

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日中戦争 朝鮮戦争

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