桶狭間の戦いとは永禄三年(西暦1560年)五月十九日、現在の愛知県名古屋市緑区から愛知県豊明市の何処かにて駿河の守護大名であった今川義元と尾張の戦国大名である織田信長が衝突した戦いである。寡兵の織田信長が10倍近くの兵を動員した今川義元の首級を取り日本史史上、類を見ない逆転劇となった事でこの上なく有名。だが、現実には戦に至った経緯も主戦地も明示されているとは云えない、謎の部分が多く残されている戦でもある。
今川義元、駿河から尾張に進攻する
永禄三年、家督を嫡子の今川氏真に譲った今川義元が甲相駿三国同盟で駿河と国境を接する北の武田晴信、西の北条氏康と三国同士の不可侵条約を締結し、三河の有力国人である松平元康を傘下に置き完全に後顧の憂いを断った状態で万全を喫し尾張に進攻する。その兵力は三万とも四万とも云われるが、現在では明治帝国陸軍が編纂した史料の二万五千が一応の目安となっている。今川義元は永禄二年(西暦1559年)から軍事物資を集積し始め、永禄三年三月下旬には尾張へと進攻する陣振れを出す。
一方、この進攻に対して岩倉織田家の織田信賢を下し尾張の大半こそ制したものの、地盤は決して盤石といえない織田信長の尾張は国人衆が動揺し兵役をボイコット、織田信長は寡兵で今川義元と衝突せざるを得ない状況に追い込まれる。今川義元が何を思って尾張に出兵したかは未だ謎だが、この経緯から推察するに義元としては織田信長の地域支配が強固となる前に尾張を叩くつもりであった可能性が模索できる。仮にそうだとすれば、出兵の時期は的確であった。京都への上洛の途上であるという説もあるがこの頃の京都権勢は三好長慶の全盛期であり、仮に京都までの途上に棲まう諸勢力が全て道を譲って上京に成功したとしても、何かしらの利益があるという保証は全く無いのが現実である。
こうして、今川義元は五月十二日に駿河を出立、五月十八日には自領となっていた沓掛城(現愛知県豊明市沓掛城址)に入城し、尾張の国境でやはり自領の城として当時は機能していた大高城(現愛知県名古屋市緑区大高町大高城址)の周辺に築かれた織田方の付城を攻撃する。十八日夜、松平元康率いる三河衆が丸根砦(愛知県名古屋市緑区大高町)を抜いて大高城に兵糧を入れると、翌十九日、松平元康が前日に抜いたこの丸根砦を攻撃し落城せしめ、同時に今川家譜代衆の朝比奈泰朝の率いる兵が大高城の北に位置する鷲津砦(愛知県名古屋市緑区大高町)を攻撃し陥落させる。丸根砦の大将、佐久間盛重は三河衆に対して打って出るも敢え無く敗北し戦死。鷲津砦は籠城を試みるが飯尾定宗、織田秀敏が戦死し同じく落城。しかし、鷲津砦に関しては全兵が玉砕することなく飯尾尚清を始めとして幾許かの兵が脱出に成功し、一定の遅滞戦闘にも成功している。
一方で織田方を見ると無論、佐久間盛重ら付城を守る守将より援軍の要請はあったのだが五月十八日、織田信長は軍議に欠席し援軍の要請を黙殺している。
織田信長、清洲城を出陣
兵が集まらぬ故かはたまた戦況を見極めた故か、初手を遅らせ大高城近辺の付城が落城した五月十九日未明、織田信長は僅かな手勢を率いて(一説には小姓衆五名という)幸若舞「敦盛」を一差し舞った後、突如、自らの居城である清洲城(現愛知県清須市朝日城屋敷)を出立。日が昇る頃には熱田神社(現熱田神宮)に到達し馬廻り衆を含めた可能な限りの兵を収集して戦勝祈願を行う。この頃、織田信長の兵数は二千名に満ち足りぬものであったという。
昼も近くなった頃、信長は南下し今川方の鳴海城(現愛知県名古屋市緑区鳴海町)北に位置する善照寺砦(現愛知県名古屋市緑区鳴海町)に入城し付近の砦に入城している兵を収集、馬廻り衆に列する。この時点で信長の兵数、三千名という。
織田信長が善照寺砦に入城した正午頃、善照寺砦の南西に位置する中嶋砦(現愛知県名古屋市緑区鳴海町)から千秋季忠、佐々政次が単独三百名ばかりで鳴海城に攻め入るも、守将である岡部元信の手によって大敗、千秋季忠、佐々政次らは討ち死にしてしまう。
先の丸根砦、鷲津砦落城に加えて鳴海城での戦勝の一報が入り、今川義元はこれらの緒戦の朗報を耳にしながら沓掛城から「桶狭間山」に着陣。
正午過ぎ、後方の善照寺に佐久間信盛勢五百名を備えとして置き、織田信長が善照寺砦から兵力二千名ばかりで出陣した頃、俄に雹混じりの暴風雨が吹き付ける。信長率いる三千名はこの風雨に紛れて各地に今川隊が点在する中を深く南下したとされる。そうして暴風雨が止んだ一時間ばかり後、「桶狭間山」で信長本隊は俄に信じられぬ事に今川義元が率いる本隊六千名程と遭遇し、槍を交える事となるのである。加えて駿河を出立した今川義元軍全体の兵数では三万でも、各地に兵を分割させた段階では義元率いる本隊も兵数を数分の一に漸減させ、六千名の直卒兵力も長期遠征に必要となる荷駄隊も多く配属されており、軍全体が戦闘に向く構成では決してなかった。
そして寡兵故に決死の織田兵は、歪ながらも兵農分離を成し遂げた戦闘専門部隊である馬廻り衆が特に奮闘し、遂には混戦となって信長すら馬を下り自ら槍を振るうげに凄まじき戦は「田楽狭間」にて今川義元が首級を取られるという形で幕を下ろすのである。義元への一番槍は服部一忠、首を取ったのは腿を切られ苦境に陥った服部一忠の助太刀に入った毛利良勝。
永禄三年五月十九日、今川義元、討ち死に。
「田楽狭間」で今川義元が戦死して後
結果として今川本隊を敗退させ今川義元の首まで取った織田本隊は勢いに勢いづき、逆に総大将の首を取られ本隊も瓦解し浮き足立った今川勢は総崩れとなり六月二十一日には第二次小豆坂の戦いで失った沓掛城を攻略し守将、近藤景春を戦死させるが、鳴海城の岡部元信だけは尾張から今川勢が一掃される中で唯一、気を吐き鳴海城の開城と引き替えに今川義元の首を取り戻し、主君の首を携えて駿河へと帰還している(岡部元信は後に武田晴信の駿河進攻によって武田氏へと下る)。
西三河では岡崎城(現愛知県岡崎市)を守備していた守将、山田景隆も岡崎城を破棄して駿河方面へと遁走し、桶狭間から撤退中であった松平元康がこれを接収する。後、築山殿を娶り今川家一門衆として遇されながら松平元康は今川義元の偏諱を返上し徳川家康と名を変え今川家と断交、織田信長と清洲同盟を締結し三河の独立を果たすのである。
こうして尾張、西三河から今川勢は駆逐され、多くの譜代衆を失った今川家は斜陽の時を迎える。
戦国時代に於ける「桶狭間の戦い」の希少性
戦乱に明け暮れる戦国時代の合戦を全て精査しても、直前まで数国の太守を務め国内の影響力も多分に残した一軍の総大将が討ち死にした合戦というのはこの桶狭間の戦いが唯一である。総大将が討ち死にした戦としては他に唯一、九州の沖田畷の戦いで戦死した九州三雄が一人、龍造寺隆信がいるが、嫡男を失い後年はやや落ち目となって、作戦ミスが見受けられる沖田畷の戦いに対して桶狭間の戦いでは今川義元に目立ったミスはない。しかも僅か十分の一という寡兵で電撃戦を行い敵本陣を一突きして全体を崩壊させたという神懸かり的な手腕から、後世の明治帝国陸軍でも桶狭間の戦いは我が国に於ける野戦の最適例として神格化された(無論ながら多分に運も影響した戦いであったが、実際に勝利しているのである)。
尚、今川義元が陣を張った「桶狭間山」、並びに討ち取られた「田楽狭間」が詳細にどの地点であるかは未だ判明していない。以前には京都に上洛する途上の戦であったと云われていたこの桶狭間の戦いも現在では否定的であり、今川義元が実際に何を思って尾張に進攻したかという理由もキッパリとは判然としていないのが現実である。