ファシズムとは
第一次世界大戦中から戦後にかけてイタリアにてベニート・ムッソリーニが提唱した政治運動であり、一般的にはその傾向から極右とされている(ただし、実際には右翼的傾向も左翼的傾向も見られる)。
以下、悪文を読みたくない人はニコニコ大百科の同項目を参照されたし(こっちのほうがわかりやすいから)。
語源
この単語の語源はイタリア語の「ファッショ(fascio、束、束ねる、団結)」という単語であり、この単語の元はラテン語の「ファスケス(fasces、束桿、斧の回りにロッドを束ねたもの、古代ローマにおける執政官の権威の象徴)」である。
思想
この政治運動を信奉する人々は、国家の価値、あるいは政治、経済などの体制を「コーポラティズム(国家を生物の肉体にたとえ、社会的な階層により成り立たせるという考え方)」の観点に従って組織すべきだと考えている。どういうことかというと、国家は国家の価値を保つための強力な権限を持つ指導者、及びそれに従う機能的な組織からなるべきであると考える。
そのため、信奉者は「国家が個人のアイデンティティを与える」と考え、個人主義を排除しようとする。さらに「国家の頭にあたる政府に複数の考えは不要である」との考え方から、政治から複数政党を排除し、単一の政党による政治を推進し、自治すらも認めない傾向がある。
彼らは平等主義を否定し、権威に盲従する姿勢をとる。しかし、この運動は必ずしも「上からの押し付け」ではなく、「民衆からの運動」により成立したという点に注目するべきであろう。
観念的には
この運動は右翼であるとする見解が一般的であるが、左翼であるという見解もみられる。
ファシズムの権威主義や民族主義的側面、王党派・財界などの旧保守勢力との親和性から右翼であるという考え方もあれば、提唱者のムッソリーニが社会主義者出身であるという出自やスターリニズムとの類似性から左翼であるという考え方、どちらにも属さないユニークな存在であるという意見が存在する。
誤解
この社会運動はしばしば曲解、または誤解されて用いられており、この運動名を自称しなかったドイツのNSDAP政権(ナチズム)やスペインのフランシスコ・フランコ政権、そのほか各種軍事政権に対してこの名称を用いた。そのため、単なる全体主義及び軍国主義に対して不用意に用いられることもあり、誤解を深めている。
さらに、この単語自体が、「権威主義」(非民主的な国家体制全般をを指す)、あるいは「左翼」及び「右翼」双方に対する侮蔑的表現として用いられているため、この単語(及びファシズム)は「最も誤用され、過剰使用された」とまで言われている。
日本では
戦前の日本、とくに昭和期の大日本帝国もファシズム国家と見なされることがある。丸山真男など左派の一部学者は「天皇制ファシズム」と呼んでいる。
しかし、昭和期の日本は独伊と枢軸同盟を結んでいたが、あくまで共通の敵の米英ソを牽制するためで、思想まで一緒という訳ではなかった。コミンテルンは明治以降の日本の体制をファシズムではなく「日本帝国主義」とし、現在の中国共産党や日本共産党もこの見解を貫いている。
各政党を統合して結成された「大政翼賛会」は一党独裁というよりも、多数政党の集合体の性質が大きく、一枚岩の政治組織として機能していなかった。国家元首は天皇としていたが、政治実権はほとんどなく、独裁者と呼べるほどの権限や強権性のある指導者も現れなかった。
しかし、戦前の日本がファシズムと無縁だったかというとそうではない。二・二六事件を起こした青年将校と、彼らに思想的影響を及ぼした北一輝は、天皇を明確な指導者としたファシズム体制を目論んでいた。近衛文麿らはファシストイタリア、ナチス・ドイツ、ソ連のような全体主義国家の台頭を見て「バスに乗り遅れるな」というスローガンを掲げ、日本の全体主義化を指向した(新体制運動)。
しかし、「ファシズムは日本の国体に反する」と危惧した尊皇主義者や、保守的な官僚や政党政治家などの既得権益者によって新体制運動の精神は骨抜きにされ、日独伊三国同盟の締結と大政翼賛会の結成にとどまり、ナチス・ドイツやソ連のような全体主義体制は結局成立しなかった。昭和天皇自身も元老の西園寺公望に後継首相の条件として「ファッショに近き者は絶対に不可なり」と述べており、天皇はファシズムのような全体主義思想の増大を危惧していた。
戦後日本でファシストを自称した者に笹川良一がいる。笹川はベニート・ムッソリーニを崇拝していたが、基本的に親米派で太平洋戦争に反対していたこともあり、ファシストを公然と自称していたにもかかわらず戦後の政治に隠然たる影響力を及ぼしていたといわれる。
現在の日本で、ファシストを自称する者としては外山恒一がいるが、彼の思想にはアナーキズムの影響も強く本来のファシズムとはかなり異なる。
余談
一応この種の政党はスペインに現存しているということである。