神もなく、主人もなく
-ピョートル・クロポトキン
概要
アナキズムとは、「支配」を「否定」する思想の総称である。
アナキズム思想を持つ人や活動家のことをアナキストという。
アナキズムという単語は、英語の anarchism のカタカナ表記である。
英語の anarchism という語は、「支配者がない」という意味の古代ギリシャ語「アナルキア(anarkhia)」が語源である。
ここからわかるように、支配に繋がる物は国家であれ企業であれ教会であれ軍隊であれ否定される。
以下に見ていくように、アナキズムにおいては様々な概念が規定され、思想的な道具立てや根拠立てを通して論理的に思想が立てられている。
では、支配とは何か。
人間の支配-被支配関係は、関係の片方がもう片方に対して非対称的であり、意志に反することを強制できる関係である。
意志に反した強制が可能である関係においては、典型的には肉体的・精神的暴力を容易に惹起せしめ、外面的・内面的な自由を拘束し、経済資源などの不平等分配、総合的に言えば搾取を可能にする。
つまり、支配は公正に反することが行えてしまい、被支配者側の幸福や権利、主体性を損なうものである。
支配関係の具体例は、例えば国家と国民、上司と部下、看守と囚人、教主と信徒、教師と生徒、雇用主と労働者などの社会的関係に見出すことができる。
多くの支配関係は、学校だとか国だとかの場(装置)において定式化され正当化されている。
このように、支配とは私たちの周辺にありふれているものである。
支配が公正に反して人々の幸福や権利や主体性を損なうものであることはすでに考察したので、つまり私たちの社会は幸福や権利や主体性が理不尽に奪われること=搾取がありふれている社会であるということが指摘できる。
アナキズムとは、これを根本的に問題視し、ラディカルな観点から社会全体の支配の一切を廃止し、最終的に社会の格差・搾取を根絶させようという思想や運動のことである。
簡単に言えば、差別も貧困も理不尽な抑圧もないユートピア主義の究極的な形だと考えれば間違いない。
アナキズムは極左なのか
一般的に言えばイエス。
アナキズムは通常のポリティカルコンパス(保守-革新の象限図)に含まれることはない。
極左とは、主流の位置から距離感のある左翼思想へのレッテル、罵倒用語である。
現代社会で主流の左派思想は社会自由主義、次いで社会民主主義や民主社会主義が位置しており、これらは既成権力の一種と考えられる。
例えば、アナキズム的見地では社会自由主義(一般的にリベラルと呼ばれる思想の事)の主張する男女平等では、結局のところ社会から支配や搾取そのものはなくせないので不十分だと考え、よりラディカルな立場に立つ。
アナキズムが廃止しようとするもの
アナキズムは、国家/政府、家父長制、資本主義、宗教内階級制、など、人間を支配する構造の一切を否定し、廃止を目指す。
アナキズムは、支配、強制のない社会を目指す。
アナキズムに対する誤解
暴力集団
以上に述べたアナキズムの中核的信念に違和感を抱いた読者も少なくないだろう。
一般的に、アナキズムというと無政府主義であり、無秩序、世紀末、カオス、暴力、破壊主義という印象を持っている人は多い。あなたもその一人ではないだろうか。
しかし、これらは決定的に間違っている。
無秩序、カオスなどのアナキズム批判が的外れなのは、それが誹謗であるからというより、アナキスト自身がカオスや無秩序を否定するからであり、哲学的にまったく質が違う議論を行うからである。
権威を廃止してヒエラルキーのない理想社会を目指していなければそれはアナキズムではない。
アナキズムは、トップダウンで部下が上司の命令をなんでも聞くことだとか、労働者が働いて生み出した価値の一部を自分では動いていない資本家が取り分として取っていくといった、私たちの社会で今も通用してしまっている価値観までもを、その考え方の外に立って哲学的・倫理的に間違いと見做して批判する思想故に、常識的価値観=私たちを縛る奴隷思想からの乖離が大きく、既存体制に対しての究極的な否定を含むがゆえに異端視・過激だと見做されがちである。
アナーキーとかアナキズムという言葉は、正確な中身を知らない外部の人によって間違った意味で使われまくっているせいで、カオスだとかのイメージが付きまとっているのである。
マスメディアに連載を持っているようなインテリ風の評論家ですらアナキズムという言葉を間違って使用していることも少なくない。
無政府主義という翻訳
アナキズムの和訳は無政府主義とされている。しかし、これは間違っている。
概要で述べた通り、アナキズムは政府や教会や資本主義といった搾取構造全般を廃止しようとする運動である。
この訳語ではアナキズムが生まれた西ヨーロッパでは政府だけでなく同じくらいに資本主義や宗教的権威による搾取や家父長制も批判されていたことが織り込まれていない。
アナキズム潮流に大きな影響を与えたブランキやバクーニンといった人物らは社会主義者であり、アナキズムは資本主義と対決する思想である。
明治期に漢語に変換される際に間違ったまま定着し現代にいたっている。
より妥当な訳としては、「非支配主義」「無支配主義」「無権威主義」「反階級主義」などを当てはめなければならない。
アナルコキャピタリズム
政治思想にアナルコキャピタリズムというものがある。
これは、一切の公共サービス、政府(公式)を廃止して、全てを市場経済にゆだねようとする思想の総称のことである。
経済活動を規制することになる政府の廃止を前提としているため、アナキズムと共通する部分があると言えなくもない。
しかし、アナキズムは資本主義的諸関係……資本家が労働者に対して非対称的な権力を保持し、搾取される関係性を否定しているため、アナルコキャピタリズムとは決定的に対立している。
何度も述べた通り、アナキズムは政府の廃止ではなく支配を否定するのが最終目的なので、市場原理主義を突き詰めようとするだけで支配を否定せず肯定しているアナルコキャピタリズムがアナキズムであることは絶対にない。
アナキズムは何を目指すのか
アナキズムが誤解されるのは、既存体制を破壊しようとする粗暴で過激な狼藉者と中傷されるからであった。
壊すだけ、否定するだけなら逆張りで終わる。
では、アナキズムは資本主義や国家などの支配体制を否定して、次にどのような社会を目指すのか。
これは十人十色であり、アナキズムは人の数だけある。
大きく分ければ、個人主義アナキズムと社会的アナキズムの二種類の潮流があるとされている。
前者は個人の意思の絶対的な優越を認め、個人が抑圧されることのない消極的自由が中心的価値にあり、後者は私有財産の廃止と財産共有などを通じて積極的に平等を達成しようとする立場である。
社会的アナキズムを例に挙げればサンディカリズムや無政府共産主義といった立場が存在する。
現在のところ、アナキズムを社会理念に採用した文明は存在しないため、これがどのようなメリットをもたらし、またそこにどのような問題や限界が浮かび上がるのかは未知数である。
他のイデオロギーとの関係
共産主義
コミュニズムとアナキズムは、最終的に同じ社会を目指している。
共産主義が達成された社会においては、財産の私有がなくなり、生産手段は誰かが独占することなく、格差や搾取が存在することもなく、究極的には国家などの統制権威や社会階級も不在の状態になるはずである。
しかし、共産主義はその過度期として国家を否定していないため、国家が存在する以上搾取が社会に残存するとして即時の国家廃止を目指すアナキズムとは合意できない部分がある。
プルードンやバクーニンといった近代アナーキストのイデオローグ達は、共産主義を自由を否定するものだとして反対している。
一方で、アナキズム、或いは共産主義から枝分かれしたアイデアの一つにアナルココミュニズム(無権威共産主義)というものがあり、権威が存在しない共産主義を目指している。
権威なき共産主義は即ちアナキズムであり、二つの政治思想がオーバーラップすることも可能であり、具現化したアナキズムとして無権威という限定辞付きの共産主義的集産社会を想定する者もおり、突っ込んで言えば両者の究極的な違いは曖昧である。
また、共産主義の中でもマルクス主義とアナキズムは歴史的に対立しているという説明がなされることが多い。前述のバクーニンなどの共産主義への反対表明も、このマルクス系統の共産主義について述べられたものである。
マルクス主義では前衛党としての共産党や、プロレタリアート独裁などの権威的機関が想定されており、アナキストは明確に否定することが多い。
現在マルクス主義とアナキズムが対立している、と一般的に言われる原因は、19世紀末の社会主義運動時代にさかのぼる。
雑多な社会主義者たちが集まって第二インターナショナルが形成される際に、その中のドイツのマルクス派が組織の優位を握り主流派となることに成功し、綱領として非合法活動路線を否定し議会で議席を得ることで政治を通じて合法的に革命を達成しようということになった。
これによって非合法路線の社会主義者だったクロポトキン等アナーキストが同組織から排除されることになり、追放されたアナキストたちは独自に社会主義組織を立ち上げることになる。
この社会主義者の分裂を権威的社会主義と非権威社会主義の対立図式で解釈することが行われ、現在に至っている。つまるところ、共産主義とアナキズムの対立は内容というよりも過去の歴史における党派性に起因するところが大きい。
実際にはアナルココミュニズムのように両者の折衷的立場が発生しているため一概に敵対しているわけではない。
また、アナキストはマルクスの権威的部分には強く反対しているが、マルクスの資本主義分析や批判は受け入れていて21世紀のアナキストたちもマルクスを当たり前のように引用する。
保守主義
アナキズムは権威の中でも他者を支配する権利に反対している。
従って、保守主義のウイングの中で同意されている国家主義/ナショナリズム、排外主義、人種差別、王党派、家父長制、宗教的保守主義といったイデオロギーには徹底的に反対である。
アナキストにとって多くの保守主義者が賛同する国家とは、社会の中の特権を持った少数派が利権を保護・維持するために社会に押し付けた暴力装置と見做される(国家が暴力装置であること自体は散文的事実であり、どれほど劣悪な国家主義者でも認めないわけにはいかない)。
国家は必ずしも害毒だけを成すわけではなく、無政府市場主義よりも国家が資本主義を規制する場合の方が格差が広まりにくいといった側面があり、合理的側面も存在する。
しかし、同時に国家が社会・人民に与えてきた危害も大きく、一定の資本規制は搾取構造を存置しながら継続させる機構と見做すこともできる。
一方で、アナキストは保守主義者と一部の論点で合意可能である。
例えば、生まれ育った地域、個人にとって第一文化となった周辺社会や慣習や言語や宇宙観といった物への漠然とした愛着、言ってみればナショナリティに属すものはアナキストたちも大いに同意し、賛同する部分である。
ナショナリティはそれぞれの圏域に局在的・固有的なものであり、その文化的独自性こそ自由な人民が息づく基盤となる物である。
アナキストは文化的独自性を尊重し、擁護する。
むしろ、グローバリズムや新自由主義によって文化的独自性が損なわれたり、困窮した人民が文化的余力を失って、瘦せた土地が栄養を保てなくなるように社会から文化が失われ独自文化を保てなくなることに対する危機感は、リベラルよりもアナキストの方が保守主義者と強く同意できる部分である。
ナショナリティが国家に重なる、というのは事実に反しており、むしろ国家はナショナリティや民族性の皮を被り、その正当な擁護者かのように自らをショウオフして、支配機構の正当化を図っているのが実態である。
もし本当に国家が地域言語や民族文化を守ろうという気概に満ちているのなら、低い賃金で働かせられたりする大衆を傍目に特権で肥え太る人間を放置することはあり得ないのである。
アナキズムの実例
社会理念としてアナキズムを実装した社会は有史以来存在しない。
しかし、アナキズムを部分的に実装して成功した例は存在する。
例えば、自由ソフトウェアは社会的アナキズムの理想に極めて近い。
自由ソフトウェアの理念のもとに作成されたソフトウェアは、誰であっても独占的に所有できない財産であり、万人に開かれており、高度な技術的所産が共有されるようになっている。
自由ソフトウェア運動で生み出されたGNU/Linuxなどのソフトウェアは現代社会で大きなメリットをもたらしている。
自由ソフトウェアの技術者は、自らが貢献したものを誇りに思ってよい。
宗教とアナキズム
歴史的に、西洋のアナキストたちは、彼らの国王とキリスト教会を人間性に反した権威的支配体制として一緒くたに批判してきた。
宗教は不公正を正当化するための装置であり、階級制度を生み出すアイデア、というわけである。
実際、宗教教団は内部にヒエラルキーを持っており、宗教主体そのものが不平等を体現としているといえる。
しかし、アナキズムは宗教を根源的に否定するわけではなく、宗教的であることとアナキストであることは必ずしも矛盾はしない。
ローマ国家によって認定されて教団化し、世俗権力への影響力を得る前の原始キリスト教は信仰的共通性で結びついた人々であったため、今日の教会とはありようが大きく異なっていて、財産を共有するなどむしろアナキズム的な側面すらあった。
仏教においては、中国や日本などで権力と密着し、民衆支配の道具となった経緯があるものの、教団から離れたその思想面は必ずしもそうではない。
釈迦はカースト制度を否定していた。
また、全てを空と見做す「空観」の思想によって資本主義的財産所有権も王権もすべては実体がないとされ、伝統や権威の本質主義を明確に否定している。
本来ならば仏教的見地からは皇帝だとか天皇だとかいった支配者の正当性が先験的に肯定されることはない。
創唱宗教の根幹は「祈り」であり、「祈り」の主体としての信仰体系はアナキズムと矛盾するものではない。
フィクションとアナキズム
お題目としてアナキズムを掲げた現代娯楽はそうそうない。
そもそも、物語は政治思想そのものを目的とすればプロパガンダになり、単に政治的主張を行いたいだけであれば散文や演説や論文で良いのである。
しかし、日本製の現代作品の中には、アナキズムに通ずる感性を持った作品は少なくない。
漫画やアニメの主人公が相互扶助や自由を信念としたり、弱者への強い共感を持っていたり、不公正や不平等、支配への怒りを掲げて戦ったり、支配から逃れて自由を求めさすらうのは極々基本的な設定である。
これは、そもそも人は主体性や権利や幸福や自由を損なうのが嫌いだからであり、強い者に抑圧されたり生身の肉体が傷ついたり自己疎外されるのは誰だって本心では嫌だからである。
アナキズムが人間の根底的なところから根差している以上、フィクションが理想とする価値観の中にアナキズムに近いものが混ざるのは自然である。
アナキズム的な理想社会、隷属や搾取からの解放は、物語におけるゴールということができるだろう。
逆に、最初から理想社会が存在していればそもそも人が大きな危険に見舞われることもなく物語も始まり様がない。
表記ゆれ
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チョムスキー……20-21世紀のアナキストとして有名な人物の一人
外山恒一 -元アナキスト