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アレキサンドロ・ボルタ

あれきさんどろぼるた

アレキサンドロ・ボルタとは、イタリアの自然哲学者であり物理学者。電池の生みの親として知られる。
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概要編集

本名:「アレクサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・ボルタ」伯爵。

(「アレッサンドロ・ヴォルタ」とも表記される)

イタリアのコモ国立ギムナジウム物理学教授

スウェーデン人教授ヨハン・ヴィルケが発明した電気盆(静電気をためる器具)を改良・世間に紹介して注目を集めた。


1776~77年にかけ、沼に発生する発火性のガス(メタン)が水素とは異なる物質であることを発見。密閉容器にメタンを入れ、電気火花で燃焼させる実験を行った。

また、今日では静電容量と呼ばれているものを研究して電位(V)と電荷(Q)を分けて研究する手段を確立し、それらが比例することを発見した。この業績から、後に電位差の単位が彼の名を取って1881年にボルトと名付けられることになった。


1827年、82歳で死去。


電池の発明編集

1791年頃、ボルタはボローニャ大学の物理学者ルイージ・ガルヴァーニが「動物電気」と名付けた「2種類の金属をカエルの脚に接触させると、その筋肉自体に蓄えられていた電気によってけいれんする現象」を研究しはじめた。

ボルタは、カエルの脚が電気伝導体(電解質)であり、同時に検電器として機能していると考えた。シビレエイの発電器官を参考に、カエルの脚の代わりに食塩水に浸した紙を使い、それを2種類の金属で挟むことで電気の流れが生じることを確かめた。こうして彼は電気化学列を発見し、電解質を挟んだ2種類の金属電極で構成されるガルヴァーニ電池の起電力は、2つの電極間の電極電位の差だという法則を見出した。

(そのため、同じ金属では電位が等しいため、起電力が生じない)

これを「ボルタの法則」とも呼ぶ。


1800年、ガルヴァーニの説への反証として、彼は最も発電効率のよい金属電極の組み合わせとした亜鉛と銀に、塩水を入れたワインゴブレットにこの2つの金属電極を入れて1つの電池とし、それらを直列に繋いで実験。

実験は成功し、ゴブレットの代わりに塩水を染み込ませた紙を用いたボルタの電堆(でんたい)を発明。これが世界初の電池ボルタ電池」である。


実験によりガルヴァーニは大学を去ることになったが、ボルタとガルヴァーニは意見の違いこそあったものの互いに尊敬しあっており、ボルタは化学反応で発生した直流の電気をガルバニ電気(直流元気)と名付けた。


その他の貢献編集

彼のもう一つの発明として拳銃の遠隔操作(電気点火空気圧ピストル)がある。

彼はライデン瓶に蓄えた電気をコモからミラノまでの約50kmの距離で送り、ピストルを発射、導線で電流を送るために、木の板を使って地面から絶縁した。

この発明は電信の考え方と同じであり、電気を使った通信のさきがけとなった。


生涯編集

こうした貢献を残したボルタだったが、4~5歳の頃はなかなか口を利かないために両親には知恵遅れの子だと思われていた。


1801年、パリでナポレオン・ボナパルトの元で公開実験を行い金メダルと勲章を受章、後に伯爵の爵位も授けられたが、ナポレオン追放後は反ナポレオン派の組織から命を狙われ、しばらくは逃亡生活を余儀なくされた。幸い、彼の功績をたたえる声が大きかったため復権し、イタリアのロンバルディア州にある街・パヴィアで物理数学科部の学部会長に就任することができた。ナポレオンを解放者として敬愛していたボルタだったが、政治そのものには関心がなかった模様。


結婚したのは49歳と比較的遅め。


1814年にイギリスの化学者ハンフリー・デービー及び助手のマイケル・ファラデーと対面。この出会いが後にファラデーが電気分解の法則を発見することにも繋がっている。

ファラデーは日記の中で彼を「気さくな人だった」と評している。

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