ベンジャミン・フランクリンとは、アメリカ合衆国の政治家、作家、物理学者。
現在の100ドル札に肖像画が描かれている。
印刷業で名をなしたあとに政界へ進出する。
アメリカ独立宣言の起草委員として初めて署名した政治家の一人となり、アメリカ合衆国建国の父として讃えられている。
また、「フランクリン自伝」はアメリカ合衆国のベストセラーとなっている。
概要
1706年ボストン生まれ。彼の父は彼を教会と学校に通わせたかったが金が無く、学校での教育は2年で打ち切られる。彼は足りない教育の分を補うように大量の本を読み漁った。12歳の時に兄ジェームズに弟子入りし、印刷業について学ぶ。若くして自由思想と発言の自由を支える考えを持ち、彼自身の言葉が記事に乗らないと見るや中年未亡人という設定の「サイレンス・ドゥーグッド」として投稿も行った。兄ジェームズが投獄された際にはサイレンス・ドゥーグッド名義で発行もした。
17歳になると新たなスタートとする為にフィラデルフィアに移り住んだが、そこでの仕事にはうまく馴染めなかった。フィラデルフィア知事に半ば騙される形でロンドンに行くとそこで植字工としてしばらく働き、ある行商人の部下という形でアメリカに戻る。21歳になると彼はジャントーという組織を立ち上げ、そこで若者は当時の出来事や思想などを語ることで啓蒙を広め互いに高め合う場を設けた。この場の為の本を募ったのが後に会員制図書館となる。そして1729年、彼は『ペンシルバニア・ガゼット』の出版者となる。この『ペンシルバニア・ガゼット』は彼の思想を広めるのにも使われ、よく新聞を通して彼は善行を説いた。また、彼は当時のフリーメイソンにも入会しあっという間にグランド・マスターの座にも付くなど、広く認められる存在となっている。
彼はリチャード・サンダース名義で『貧しいリチャードの暦』を出し、一般市民の間でも名言の数々で親しまれている。アメリカ初の消防団を立ち上げたのも彼である。彼は紙幣肯定派であり、ニュージャージーにて贋造対策技術込みの紙幣を出し、インフレを起こさずにデフレを抑える功績を上げた。若者の教育にも興味を示し学校を立ち上げようとしたり、アメリカ学術協会を立ち上げ電気の研究に没頭するなど、彼が成した事を上げていくとキリがない。コロニー初の病院を立ち上げたのも、コロニー初の住宅保険も、彼のおかげである。アメリカの初代郵政長官も彼。
1765年印紙法に反発し撤廃に導いたのをきっかけとし、アメリカの不満をイギリスに物申す人の役割を担う。ロンドンを起点にヨーロッパを巡り、アイルランドの惨状を見てアメリカの将来を憂いたり、ドイツの学者に電気の研究の影響を受けたりした。フレンチ・インディアン戦争に掛かった費用を賄おうとイギリスがアメリカに課税しようとした際も「アメリカもイギリスと同等の兵を送り大きく貢献したしその為に財も多く使った」と反発。アメリカへの権力の強硬を測るイギリスとそれに反発するアメリカの間で亀裂は深まり、とうとう始まったアメリカ独立革命では代表使節に選ばれ、アメリカ独立宣言文書の草案にも重要な修正を施している。何度目かのヨーロッパからの帰国の頃には彼はジョージ・ワシントンに並ぶアメリカの自由の貢献者という立場になっていた。まさに「建国の父」に相応しい活躍であり、彼を「アメリカ大統領になっていない唯一のアメリカ大統領」と呼ぶのも頷ける。
思想
人に善行を説いていたことからもわかるように善というものを信じる人であった。彼は宗教組織を「人を善行に導く為に必要」と評しつつも、自身は宗教礼拝はほとんど参加していない。コットン・マザーによる『善行論』は彼に多大な影響を与えており、自分が良き人と評されるならばそれはあの本のおかげだと言っていたらしい。何にせよ、彼がボランティア組織を多く立ち上げたのはこの影響であり、これがアメリカにボランティア活動を根付かせるに至る。
彼は自身をキリシタンとしつつもその考えは理神論者であり、教義を受け入れずに善行を広めることで神への信仰を示す道を選んだ。伝道者ジョージ・ホウィットフィールドを尊敬し、彼の考えを広め第一次大覚醒に貢献した。ピューリタン(清教徒)に育てられた彼であるが、神を信じつつも教義より徳を大事にしていたのがよくわかる。自身を高める為に「フランクリンの十三徳」と呼ばれる徳目を作り、生涯ここから一部を選んで実行し続けたそうな。
発言の自由を強く推していた。彼は、思想の自由無くして知恵は成せず、発言の自由無くして真の自由は成し得ないとしている。
彼は最初のうちは自身も奴隷を所有していたが、後に考えを改め奴隷制度を人の尊厳を傷つける行為とし、奴隷解放に積極的になったという。
彼は肉食を止めベジタリアンにもなり、肉を食べないことのメリットも説いた。ベジタリアン食は肉を含む食事より安く済み、頭もスッキリすると言っていたそうだ。豆腐に多大な興味を示し、「豆腐」を英語で記録したのは彼が初という話もある。
予防接種にも関心を示した。当初、人痘摂取法という天然痘対策の考えがアメリカに持ち込まれたのだが、ベンジャミン自身も息子を天然痘で亡くしており、予防接種していなかった事を悔やんでいた。
科学者として
フランクリンは科学の分野でも功績を残している。
有名なのは雷雲の天候のなかで凧をあげて雷雲の帯電を証明するという命がけの実験を行った。ちなみに彼自身は絶縁体の上に立ち屋根の下で濡れないように注意するなど感電対策を行っている。後に同様の実験を行った人の多くは感電してしまっている。なお、勘違いされがちだが凧そのものは雷に打たれていない(打たれていたならベンジャミンは間違いなく死んでいる)。
嵐が移動することを発見したのも彼とされる。凧を使った実験は雷のものだけに留まらず、気象学に貢献している。他にも北大西洋の海流を調べたり、人口統計学に貢献したり、蒸発による冷却を観測したり、色と熱吸収の関連性を見出したり(黒体熱放射の観測)、熱と伝導率の関係を実験したりと多くの分野に手を伸ばしている。そして彼は当時としてはホイヘンスの光の波動説の数少ない支持者だった。