「我は死神なり 世界の破壊者なり」
概要
1904年4月22日、アメリカ合衆国・ニューヨークに誕生。裕福なドイツ系ユダヤ移民だった。
フルネームは「ジュリウス・ロバート・オッペンハイマー」という。
繊細だが並々ならぬ才覚を持つ少年だったようで、ハーバード大学を首席で飛び級卒業し、イギリスのケンブリッジ大学、ドイツのゲッチンゲン大学に留学して、原子物理学を研究した。
20代でカリフォルニア工科大学の助教授に就任。この頃の研究として、一定以上の質量の恒星が超新星爆発を起こすと、重力崩壊してブラックホールになることを理論的に解明したことが挙げられる。
1942年にマンハッタン計画に参加、ロスアラモス研究所の所長に任命される(ロスアラモスは広大な荒野だったので、原爆の実験はここで行われた)。
エンリコ・フェルミジョン・フォン・ノイマン、リチャード・ファインマンなどの科学者たちをまとめ、1945年7月に史上初の原爆実験を成功させる。
その爆発を目の当たりにしたオッペンハイマーの心にはヒンドゥー教の詩篇『バガヴァッド・ギーター』の一節である「我は死神なり 世界の破壊者なり」という言葉が浮かんだとのこと。
そして原子爆弾は実戦投入されて8月6日に広島、8月9日に長崎に投下される。あまりの破壊力とそれがもたらした惨劇にオッペンハイマーは衝撃を受け、戦後は水爆開発に反対した。
※水爆を生み出したのはエドワード・テラー。この人もマンハッタン計画に加わっており、終戦後トルーマンに進言して水爆開発に邁進した。
そして弟のフランクを始め周囲の人物が共産党に関係していたことから「赤狩り」に遭い公職を追われることになる。
1967年、咽頭がんにより死去した(享年62)。
2023年、彼の生涯を描いたクリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』が公開された。日本公開は2024年。
人物
- 趣味はヨット、詩作など。また結構な愛煙家だった。
- 終戦後に面会したトルーマン大統領に「わたしの手は血で汚れています」と告げたと言われている。トルーマンは原爆投下を決定した人なので、ロバートのこの発言は彼のメンツを潰すことになり不興を買った。
※ただしロバート自身は原爆投下に賛成の立場で、それ故に「自分達は正しかった」と考えていた。一方で原爆を生み出した身として苦悩や葛藤を抱えていたのも確かであった。
- 戦後プリンストン高級研究所の所長に任命された。
研究所に湯川秀樹などの日本人学者を招聘したのは、原爆開発に携わった贖罪意識があったからだと言われる。
- 1960年に来日したが、被爆地である広島、長崎に行くことはなかった。
しかし1964年に被爆者たちと面会した際、涙を流しながら「すまない、すまない……」と謝罪していた事を通訳として立ち会った女性が証言している。
※アメリカでは原爆は戦争終結を早めたとして肯定的に見られる傾向にある。徹底抗戦を続ける日本に対し、戦争が泥沼化すればさらに多くの犠牲が出ると考えたためで、いわば「1000人救うために100人殺す」発想である。
ロバート自身も「悪用すれば文明社会は滅亡するが、正しく使えば世界から戦争がなくなり、平和をもたらす」と考えていた(核の抑止力という形でそれが実証されている)。