アンネの日記
あんねのにっき
「私達は皆、幸せになることを目的に生きています。一人ひとりの人生は違うけれど、然れど皆同じなんです」
「私は理想を捨てません。どんなことがあっても、人は本当に素晴らしい心を持っていると今も信じているからです」
「私が私として生きることを許して欲しい」
「私は死んだ後でも生き続けたい」
この項目ではアンネ・フランクによる日記文学に関して記述する。
1940年代、第二次世界大戦下のオランダ・アムステルダムで生活していたユダヤ系ドイツ人の少女、アンネ・フランクの日記を基に著された作品。原題は『後ろの家(Het Achterhuis)』。
ナチス台頭に伴うユダヤ人虐殺を逃れるため、父が用意した隠れ家での一家(+4人)の潜伏生活が記録されており、オランダ語で書かれている。1942年6月12日から1944年8月1日(隠れ家発見の3日前)までの記述があり、戦時下での窮乏や空襲による被災、一つ屋根の下で他人と暮らすストレスがもたらす衝突や摩擦がリアルに描かれる。同時に過酷な生活でも楽しみを見つけることを忘れず、前向きに生きようとする住人たちの姿も描かれ、当時の(隠れ家という特殊な環境にあるものの)一般人の生活を知る史料としても見ることができる。
アンネが置かれた状況や戦争、人間に対して抱く彼女なりの感想や希望も記されており、アンネが最期まで持ち続けたであろう人間愛と切なる願いに胸打たれる読者も多い。
2009年7月31日まで開催されたユネスコの国際諮問委員会の会合での推薦を受け、『世界の記憶』に登録されている。
第二次世界大戦の最中のドイツによる占領下のオランダ、アムステルダムが舞台となっている。
当時のオランダはナチスドイツの占領を受けており、彼らの持つ選民思想によりユダヤ人は虐待に近い差別を受けるようになった。そして1941年、ユダヤ人問題における最終的解決と称してナチスはユダヤ人と看做した者を問答無用で虐殺する指令を下す。
ドイツ系ユダヤ人であるアンネの一家はドイツのフランクフルトから逃れ、アムステルダムで事業を行っていたが、占領のため各種制限を受け続けており、最終的には生命の危機も考えられた事から、海外への逃亡を考えていた。しかしそれは成功せず、1942年には強制収容所への収容が始まったとされる。そのため、一家は父の会社の社屋にある「隠れ家」に避難し、ナチスのユダヤ人狩りをやり過ごすこととした。また、父の仕事仲間だったファン・ペルス(作中ではファン・ダーン)氏とその妻子、父の知人である歯科医のプフェファー氏(作中ではデュッセル氏)が隠れ家に入り、父の会社の社員である
- ビクトル・クーフレル(作中ではフィクトル・クラーレル)
- ヨハンネス・クレイマン(作中ではヨー・コープハイス)
- ミープ・ヒース、ヤン・ヒース夫妻(作中ではミープ・ファン・サンテン、ヘンク・ファン・サンテン)
- ベップ・フォスキュイル(作中ではエリー・フォッセン)
の5人と、ミープの父である倉庫係の男性1名の協力を得て、総勢8名の潜伏生活が行われた。語学が堪能だったアンネはオランダ語で日記をつけている。
またアンネは自身の日記を作品として公開する前提で清書しており、1944年3月までは作業は終了していたとされる。ところが、1944年の8月、何者かの密告により「隠れ家」の存在が明らかとなり、保安警察の親衛隊員にアンネを始めとする隠れ家の8人全員と、協力者であったクーフレル、クレイマンが逮捕、連行される(ミープ、ベップはクーフレルが「何も知らなかったことにしろ」と言い含めて庇ったため捕まらずに済んだ。ヤンも既の所で捕縛を逃れている)。
日記は「隠れ家」に残され、一部散逸(オリジナルの日記の2冊目など)したものの、すべては散逸せず、協力者女性の手に渡る。
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の終了後、アンネの死亡が確認されたため、その日記は唯一生還した彼女の父オットー・フランクの手に渡った。
このとき存在したものは日記の原本である手帳とノート、清書された「ばらの用紙327枚」であったといわれる。
この清書したものを基にして修正を行い、ドイツ語に翻訳し、私家版として彼の親類や友人などに配布したところ、出版を勧められた。さらに出版の際一部の記述、たとえば他者への辛らつな批判や性的な内容などの書き換えが行われ、オランダ語で出版された。
内容は1942年の「隠れ家」への避難前である6月から保安警察に逮捕される前の1944年8月までの生活などを虚実交えてつづったものである。
この日記は公開を前提としており、実在する「隠れ家」の人物名は偽名となっている。
また、当初削除された一部の記述は復元されているものも存在する。
この文学の内容に関してはホロコースト否定論者やネオナチなどより偽造や過度の改変などの可能性が指摘されているが、科学的な調査などでは疑わしい点は発見されておらず、一部現存する原本からも過度の改変は認められていない。日記の成立過程、真贋論争、日記張とインクの成分鑑定、筆跡鑑定については『アンネの日記 研究版』に詳しいので、興味のある人は近くの図書館で閲覧すること推奨。
また、関係者の証言などからこの人物自体の存在は明らかである。
生々しい性への目覚めのみならず関係者やクラスメートへの辛辣な悪口を書きまくる生意気毒舌少女としての一面、特にオットーが心を痛めていた母への悪口がわざわざ削除した上で出版(のちに完全版も出版)されることはないし、近年も下ネタジョークばかりを書き連ねたなどという隠しページが発見されるといったことが起こっている。
この作品は同じタイトルで複数回映画化などがなされている。また戯曲などにもされている。
戯曲については、ニューヨークのユダヤ人作家マイヤー・レビンとのトラブルが有名。レビンはこの作品に入れ込んで精魂込めて執筆していたのだが、内容があまりにもガチガチのユダヤ教的で、ユダヤ教に興味がなかったオットーやアンネの実像と離れていた。このことからオットーはこの上演を断り、別の作家に作成を依頼したことで裁判に発展。
最終的には穏便に済ませたかったオットーが和解金を支払うことで解決したのだが、ネオナチ界隈では「戯曲の権利をめぐった裁判」が「アンネの日記の書き手はレビンで、追い込まれたオットーが和解金で黙らせた」と変換されて現在でも普通に「アンネの日記レビン作成説」が主張されることがある。
このことについてオットーは後年「あのような和解をしたことを後悔しています」と語っている。