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AVLVS VITELLIVS GERMANICVS AVGVSTVS

本名アウルス・ウィテッリウス
スペルAVLVS VITELLIVS
皇帝名アウルス・ウィテッリウス・ゲルマニクス・アウグストゥス
スペルAVLVS VITELLIVS GERMANICVS AVGVSTVS
権力オトから奪う
統治69年4月17日 – 69年12月20日(9ヵ月)
生没15年9月7日 ローマ(イタリア本土)- 69年12月20日
崩御ウェスパシアヌス軍との戦いで敗死

概要

第8代ローマ皇帝。四皇帝の年として知られる内乱期に即位した皇帝の一人。オトを破り即位した。

ローマの上流階級のウィテッリウス家の生まれ。ウィテリウスやヴィテリウスとも書かれる。

とにかく大食であったことが知られているデブ皇帝。


ネロの遊び相手

ネロとは幼い頃から交流があり、ネロの遊び相手をしていた。ウィテッリウスはそのころから巨漢であったようで、ネロから「お釜」とあだ名された。


ガルバ殺害

68年にネロの自殺ののちガルバが皇帝に即位した。ガルバは急激な財政再建政策を行おうとして、ローマ将兵を怒らせ、ローマ帝国軍の信頼を完全に失った。


元首になってくれと頼まれる

その時ゲルマニア軍団にいた将軍として赴任していたウィテッリウスに配下の将兵から皇帝即位を求められた。ウィテッリウスは軍団の支持を背景に、皇帝ガルバへの軍事行動を開始した。


ウィテッリウスが軍事行動を開始した直後、ローマにおいてガルバの副官であったオトクーデターを起こした。ガルバらの排除に成功すると元老院の支持も取り付け新たな皇帝に即位した。


オト時代

首都での皇帝交代劇を無視して進撃するウィテッリウスの軍団は、クレモナにおいてオト軍と激突する。この戦いでの敗北の知らせを受けた皇帝オトは自ら命を絶ち、名実ともにウィテッリウスが皇帝に即位した。


公開処刑

しかし安泰は長くは続かなかった、シリア、エジプト、ユダヤ各軍団の支持を受けた歴戦の将軍ウェスパシアヌスがウッティリウスに対しクーデターを起こす。迎撃を図るウィテッリウス陣営であったが戦いに敗北。ローマにおいてウィテッリウスはウェスパシアヌス側に見つかり、裸に剥かれて公共広場を引き回された。

そこで民衆に見られながら拷問を受け、散々嬲られた末処刑された。


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