「分かります」
「トップスタァを目指して歌って踊って奪い合いましょう…」
CV:津田健次郎
概要
聖翔音楽学園地下にある舞台少女達がトップスタァをかけて戦うオーディション会場『地下劇場センターバミリ』にひっそりと住んでいるごく普通のキリン。
事実上のオーディションの主催者であり、オーディション当日は参加資格者のスマートフォンに当日の概要をメールで送信する。
キラめき溢れる舞台少女達のステージ、特に誰も予測できない運命の舞台を見ることに生きがいを感じている。スタリラにも登場し、謎の少女えるとも面識がある模様。
見た目こそごく普通のキリンだが、渋い声で人語を喋る(口は動かない)。
「分かります」が口癖で、おのれディケイドみたいなノリで場面に即しているか怪しい場面でも無理矢理言う。
知能も高く、人の手を借りずしてテープレコーダーを再生させたことも。
美少女だらけの登場キャラの中その奇抜さは際立っているが、非日常的な異常現象がたびたび発生するオーディション会場という空間に隔離されていることや基本的に口数は少なく大人しい性格もあって意外と本編には溶け込んでいる。
何故キリンなのかは明言されていない。
食糧に関しては何故か屋内に生えている木に生い茂る葉っぱを食べたり水を飲んだりしている描写が確認出来るが、どのように調達しているのかも一切不明と非常に多くの謎に包まれている。
聖翔音楽学園地下に劇場が出来本編のようなオーディション形式になったのも九九組が二年生に進学してからで、それ以前にキリンと関わりがあった描写はない。
聖翔だけではなく、本編前には神楽ひかりの留学先である王立演劇学院、本編後のスタリラでは他の高校でも存在が確認されているなど異次元空間在住を示唆するような描写もある。一方、各オーディション会場の入口からなら外部でも連絡は取れる模様。
アニメでは毎回予告を担当しており(「分かります」としか言わない。毎回舞台少女達がタイトルを言ったあと、微妙に言い方を変えて「分かります」と一言そえる)、エンドカードにもこのキャラにちなんで実写のキリンの写真が使われるのがお約束になっている。
正体を知るカギ、考察(添削歓迎)
「なぜ私が見ているだけなのかわからない? わかります」
本作においては、高い塔や背の高い人間等は、「すべてを見渡している」「周りから超越している」もののメタファーとして使われている節がある。
TVアニメ版での最後のレヴュー勝負の最中、キリンは画面越しにこちらをまっすぐ見つめ、明らかに視聴者に向かって話し始める。
舞台とは役者だけでなく、それを観る(望む)観客がいて初めて成り立つもの。舞台少女たちだけでなく、観客としてそれを心から楽しんで観劇するキリンもまたレヴューに欠かせない存在なのだ。
彼に目的があるとすれば、それは第四の壁の向こうの人間たちと同じなのだろう。
そこにおもしろそうな見世物があるから。
まだ若手の役者たちがせいいっぱい演じている姿を応援したいから。脚本や演出の妙にあっといわされたりうならされたいから。歌や音楽が好きだから。アクションやバトルがかっこいいから。キャラがかわいかったり役者が美しいから。あるいは、特定のキャラクターの心の動きが共感を呼ぶから。
逆に言えば、少女達が泣こうと笑おうと、その過程が心を揺さぶるものであれば些事にすぎないということでもある。
彼の口癖の「わかります」にしても、「ブラボー」とか「お見事」のように、すばらしい見世物を観た時ほど語彙力が低下し、ありきたりな感想になってしまうのは誰にでもあることだろう。
舞台少女たちの生きざまに激しく心を揺さぶられ、必死に絞り出した最上の賛辞が「わかります」なのかもしれない。
この先劇場版少女歌劇レヴュースタァライトネタバレ
列車は必ず次の駅へ_______
なら舞台は?
あなた達は?
𝒘𝒊(𝒍)𝒅-𝒔𝒄𝒓𝒆𝒆𝒏 𝗯𝗮𝗿𝗼𝗾𝘂𝗲
劇場版でも引き続き登場するが、今回は厳密に言えばオーディション主催者では無い。
劇場版においてもキリンの力においてレヴューは開催されるが、これはオーディションではなくワイルドスクリーーーンバロックと呼ばれる新たなレヴュー群であり、その企画者は(恐らく) 大場ななであって、キリンはそれに協力する形となっている。
ワイルドスクリーーーンバロックの詳しい概要についてはキリンに直接関係ないため省略するが、キリンはその開始の宣言、神楽ひかりの召喚、野菜の姿となりその心臓であるトマトを舞台少女の燃料として捧げるなどの役割を果たす。
そう野菜の姿での登場となる(通常の状態の出演もある)
キリンは大量の野菜を組みあわせて構築された、アルチンボルドの絵画のような状態になった体から、その心臓部と喉元に位置する、今作において舞台少女の燃料の象徴であるトマトを捧げるのである。
その後、神楽ひかりを待ち構えていたキリンは、神楽ひかりにトマトを渡すと、自分の役目が舞台少女の燃料であることを語り、自分にも与えられた役目があったことに歓喜しながら突然発火し、業火に包まれながら落下して舞台に火をつけることとなる。
文章にすると非常に奇天烈な内容だが、これが本作におけるキリンのラストシーンである。
以下筆者の考察
キリンは本作において野菜の集合体の姿で登場し、その身の一部であるトマトを舞台少女に燃料として捧げ、神楽ひかりに渡し終えたあとには炎に包まれて落下してしまう。
ここではワイルドスクリーーーンバロックとは何か、
なぜキリンが野菜の集合体の姿なのか、
なぜトマトが象徴として選ばれたのか、
なぜキリンは発火し落下したのか、
キリンの役割・正体とは結局なんだったのかについて、
筆者の考察を述べていく。
まずワイルドスクリーーーンバロックとは、度重なる再演によって様々な舞台少女の行く末を見た大場ななが危惧した舞台少女の死を回避するため、大場ななとキリンが企画したレヴュー群である。
舞台少女は常に飢え、貪欲に、自分なりのトップスタァへの道を突き進むべきものである。
しかし愛城華恋は長年の目標であった神楽ひかりとのスタァライトを達成した結果目標を見失い、他のものも程度に差はあれこの先の進路に自信を持てずにいた。
そのため次の舞台へ進む意思が希薄になっていたために、このまま行けば舞台少女としての目的を見失い、舞台少女としての死を迎えつつあったのだ。
ここまで作中のテイストに合わせて説明したが、有り体に言ってしまえば長年の目標を達成してしまったことによる燃え尽き症候群に陥って目標を見失っていてはこの先進歩がないから舞台少女として進化できないということである。
ワイルドスクリーーーンバロックは各々の思い残しや禍根、本性、本人さえ気付いていなかった欲望などを解消し、または露わにし、今までの自分にケリをつけて新しい未来へ突き進む決意をすることでこの舞台少女の死もとい燃え尽き症候群を脱却しようという試みである。
次にトマトであるが、これの主な意味は作中でも語られる通り舞台少女の燃料である。
ではなぜ数ある食べ物の中からトマトが選ばれたのか。
それは恐らく、トマトの花言葉である完成美を受けてのことであると推測できる。
前述の通り、愛城華恋は長年の目標であった神楽ひかりとのスタァライトを達成し、スタァライトは一度完結を見た。
しかしそこで立ち止まっては舞台少女の死につながってしまう。
そこで舞台少女は過去の舞台を糧として次の舞台へ進む必要がある。
つまり、トマトの花言葉の完成美がここで指すものは、完成させた過去の舞台であり、それを喰らうことで次の舞台へと進むための燃料とする。
こう考えれば非常にわかりやすいのでは無いだろうか。
(映画冒頭でのトマトの爆発は完成美の破壊、つまりTVシリーズで一度完結を見たスタァライトの完成美の破壊を表していると考えられる)
(天堂真矢にはトマトが嫌いという設定があるが、これは誰よりも舞台少女として完成している彼女が舞台少女の完成美を本能的に嫌っていることを表しているのではないだろうか)
ならばなぜ完成させた過去の舞台の象徴たるトマトがキリンの体から出てくるのか。
これについては解釈の余地があるところだが、キリンが燃えつきるシーンにおいてキリン自身が発言している通り、キリンはそのトマトだけでなくその存在そのものが舞台少女の燃料である。
しかしもちろんキリンは完成させた過去の舞台の象徴ではない。
では何の象徴か、これについては既にTVシリーズでキリン自身が語った通り、観客である。
観客が出して、舞台少女の糧になるものと言えば何があるだろうか。
それはお金である。
トマトは完成させた過去の舞台の象徴であると同時に、観客が舞台少女に支払うお金の象徴でもあると考えられるのだ。
それがキリン本人の体の一部となっている理由だが、血税や身銭という言葉の暗喩なのではないだろうか。
その身を削って働いたお金を舞台少女に捧げる。
我々が映画を見る時も、そのお金は働いて手に入れたものだろう。
やはり舞台を続けるにはお金が必要で、お金を手に入れるためにはキリンもとい我々のような観客が不可欠なのである。
キリンは自分に与えられた役目があったと発言したが、これはつまり観客も、レヴュースタァライトを支持し、映画のチケット代を身銭を切って支払うという形で映画作りにおける役目を果たしているということでもあると言えるだろう。
ここでスタァライトの公式ファンネームを思い出してみよう。
舞台創造科である。
舞台創造科とは作中では小道具作りや監督、脚本など舞台の裏側を作る役割であり、ファンの象徴はキリンなはずであるので一見違和感があるが、しかしキリンも我々もその身を削ることによって舞台を存続させているという形では舞台の創造に関わっている。
つまり本作のキリンの役割とは、作中の舞台少女にとっての観客、あるいは第四の壁で本作を観る私たちアニメ視聴者や映画館の観客と同様であり、即ち舞台創造科であると解釈出来るかもしれない。
総じて、キリンの正体はやはり観客の象徴である。
しかし劇場版においてはただの観客というだけではなく、お金を支払って舞台を存続させるという形での舞台創造における役割を持っている、という側面が描かれたのではないだろうか。
キリンはその身全てを舞台少女の燃料として捧げ燃え尽きたが、しかしキリンは観客が求めるから舞台が作られると言った。
これは逆も然りで、素晴らしい舞台があるから観客が集まるのである。
一見死んだかに見えるキリンもしかし、また素晴らしい舞台があればそれを求めて現れる、かもしれない。
我々観客の象徴がただひとつの映画に満足して昇天するなどきっとありえないだろう。
観客もまた、次の舞台を探して進むのだ。
客演
本作との双方向コラボイベント『Revue_Must_go_On』の予告PVで登場。「また何か関与している?」と思われたが、今回登場した真の黒幕の手でオーディションが改悪されオーディションそのものが滅茶苦茶になってしまったためただの傍観者となってしまった。