概要
本名:ジョン・リチャード・ディーコン。
ロック・バンド「Queen」のベーシストとして活動したが、1997年以降は公の場から姿を消した。
来歴
クイーン加入まで
1951年8月19日、レスター市(イングランド)に生まれ、1960年にオードビー市に転居。幼少期から音楽や機械いじりに親しんだ。おとなしく真面目な子で、インタビューを受けた小学校の同級生たちもほとんど記憶に無いと答えている。
1962年、父が死去。
1963年、新聞配達で貯めたお金でアコースティックギターを買った。
1966年、ロック・バンド「ジ・オポジション」に加入。リーダーのリチャード・ヤングは金持ちの子で、ディーコンにエレキギターを買い与えバンドに迎えたが、ベーシストが下手だったためディーコンがベースに回ることになった。
1970年、エンジニアになるためロンドン大学のチェルシー・カレッジに進学し電子工学を学ぶ。幾つかのバンドのオーディションを受けたがすべて落選した。
1971年、友人がディーコンを師範学校の開いたディスコ・パーティーに連れて行き、遊びに来ていたブライアン・メイとロジャー・テイラーに会う。「以前、バンドをやっていてPA機材が実家にある」と話したところ二人の目の色が変わる。二人は後日、ディーコンをインペリアル・カレッジに呼んでバンドのオーディションを受けさせメンバーに加入させた。
クイーンでの活動
歌が不得意でリード・ボーカルをとらなかった事や、ベーシストという地味なポジションであったことから、他のメンバーと比べて若干影が薄いが縁の下の力持ちというべき人物だった。
また、謙虚で温厚な性格であり、メンバー間の衝突などが原因で解散の危機に陥ったグループを何度も救い、彼の存在なくしてクイーンは成り立たなかったと言って過言ではない。
楽曲としては全米トップを記録した「地獄へ道連れ」、メンバー全員が女装するというPVで話題となった「ブレイク・フリー」などを作曲している。
ディスコミュージック好きで、作曲した「地獄へ道連れ」はそういった志向の現れと言われ、実際本場アメリカの黒人層にもヒットしている。来日した際にもサッポロビールで酔っぱらい、ディスコを何軒もハシゴしてたとの証言がある。
フレディ死後。
1991年にフレディ・マーキュリーが死去した後は、追悼コンサートと一部の楽曲製作に携わっただけで、クイーンのメンバーとしての活動は行っておらず、音楽業界からは事実上引退している(これはブライアン・メイやロジャー・テイラーも認めている)。
ジョンはフレディを1人のアーティストとして尊敬しており、「クイーンのヴォーカルはフレディーしかいない」という考えを持っていた。そのため、フレディが死去したことでメンバーとしての活動にピリオドを打ったと考えられる。他にも、もともと表舞台に出るのが苦手であり、音楽業界の慌ただしさや狂騒に対してストレスを感じていたことも理由として挙げられる。
ただ、ブライアンやロジャーは「今も彼がクイーンの一員であることに変わりはない」としている。
ジョン自身も、現在でもファンを大切にしており、SNSの1つであるMySpaceに一時マイページを設けていたり、時折ファンサイトに書き込みをするなどして、ファンとの交流を図っている。
余談
- メンバーが対立する事も多かったクイーンだが、喧嘩の当事者になった事がなかった。フレディは「ジョンとはケンカにならないんだ。答えが返って来るのに一日かかるから」と語っている。
- チェルシー・カレッジは首席で卒業し、電子工学の学士号を持っている。
- ブライアンのために作成したギター・アンプは長らく使用され、独特のサウンドを生み出した。エフェクター等の製作・改造も行っており、技術面からバンドを支えた。
- 好きな音楽はモータウン・サウンドやファンク(オハイオ・プレイヤーズ)、ディスコ・ミュージックなど。
- フォード・カプリを買おうとしたところ、フレディから「クイーンのイメージにふさわしくない」と言われてジェンセン・インターセプターにした事がある。