概要
1941年5月24日、タイ王国バンコク近辺サムットプラーカーン県出身。バンコク技術専門学校映画科卒業。
英語表記でサンゲンチャイ・ソンポテ とも表記される。
国営貯蓄銀行の宣伝部に勤務していた1962年、特撮映画制作を志し、タイ貯蓄銀行と三井銀行が費用を折半する形で日本に留学。東宝で円谷英二に師事し、特撮の技術を学ぶ。
翌1963年に帰国、銀行を退職して映画会社チャイヨー・プロダクションを設立する。
1973年、タイ王国初の本格特撮映画『ターティエン』を製作。当時のタイ映画歴代一位を記録する300万バーツもの売り上げを記録。
翌1974年、同作と円谷プロの『ジャンボーグA』のキャラクターを共演させた合作映画『ジャンボーグA&ジャイアント』を製作し、『ターティエン』以上の売り上げを記録。その後も円谷プロのウルトラシリーズとタイの著名な神ハヌマーンが共演する『ウルトラ6兄弟VS怪獣軍団』を製作。こちらは日本でも1979年に公開された。
1985年の『エリマキトカゲ一人旅』を最後に映画製作から撤退し、テレビ番組の製作をするようになる。円谷プロダクション三代目社長の円谷皐とは「兄弟みたいなもの」と言うほど親密な仲で、前述のようにチャイヨー製のキャラクターと円谷製のキャラクターが共演する映画を合作した他、1973年に『ジャンボーグA』の放送権を得てタイで放送し、翌1974年に『ウルトラマンタロウ』と円谷作品のタイでの放送に関わった。
しかし円谷皐の死後、「日本以外でウルトラマンのキャラクターを商用目的で利用する権利を持つ契約を交わした」と主張し、円谷プロと対立。日本とタイとでそれぞれ裁判となった。
日本での最高裁判所における契約書を巡る判決では社判が本物であるとしてチャイヨーが勝訴し、裁判中にバンコクにツブラヤ・チャイヨーを設立。タイ王国・中国でのウルトラマンビジネスを展開した。
しかしタイ国では、作品名や書かれていたサインが間違っている事、契約書がコピーのみで原本がない事を根拠に最高裁判所から2008年2月に出た判決において、契約書は偽造であるとされ、ソムポートがウルトラヒーローの考案者であるとの主張も却下し、上記の合作映画2本とその関連作品9作品の著作権は全て円谷プロが持つと確定した。
日本とタイ国以外での契約書を巡る裁判は続いていたため、2008年11月に自身が持つと主張する日本国外でのウルトラマンの利用権を日本のユーエム社へ譲渡する。しかし2011年、1998年にバンダイから1億円を受け取る代わりにタイ王国以外の独占利用権を放棄していたことが発覚し、主張していた権利は最初から存在しなかった事実が明るみに出たのだった。
円谷プロは裁判に多額の費用をかけていたのだが、それはチャイヨー側も同じことで多額の裁判費用がかさんだことで首が回らなくなり、さらには2011年のタイ王国アユタヤ川の大洪水によって物理的ダメージを受け事業を続けられなくなり廃業。
ユーエム社が2015年にアメリカ合衆国で起こした裁判においては出廷を命令されているにもかかわらずに拒否しており、譲渡契約書の原本提出にも応じなかった。
その後、アメリカのディスカバリーと呼ばれる強力な証拠開示制度によってチャイヨー側のボロが次々とあらわとなり、チャイヨーには1976年の譲渡契約書以降に結んだとされるライセンス書類が残されていたことも判明した。この結果、2018年のアメリカの裁判では円谷プロが勝訴。2019年の高等裁判でも一審判決が支持され、2020年3月4日の最高裁への上告期限までにユーエム社側から上告がなされなかったため、円谷プロ側の勝訴が確定した。これにより、著作権を巡るウルトラマン訴訟は完全に終結した。
2020年9月には残ったタイ王国での賠償を巡る裁判も終わり、1998年から2008年までの10年間に得てきたライセンス料について円谷プロへの損害賠償が命じられた。
2021年8月26日、肺がんにより死去。享年80。
なお2018年の時点で円谷プロ6代目社長円谷英明と行動を共にしていたが、そちらの方はどうなるか不透明である。