データ
コース | パリロンシャン・芝2400m(右回り) |
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条件 | 3歳牡・牝 |
斤量 | 定量 |
概要
フランス・パリロンシャン競馬場で芝2400メートルで施行する競馬の競走(GⅠ)。2005年より古馬に解放されたロワイヤルオーク賞に変わって牡馬三冠の位置付けとなった。
フランスでは初の国際的なレースとして19世紀後半に創設された歴史あるレースである。
この時代はフランスとイギリスがしばしば戦火を交えていた時代で、競馬に関してはイギリスに遅れを取っていたフランスにとって、パリ大賞典は仇敵イギリスと対決してこれを破る格好の舞台だった。
フランスではクラシック競走の一つとみなされて、国内最高の権威と賞金を誇っていた。
第二次世界大戦が終わると、後発の凱旋門賞が賞金や権威の面で上回るようになり、ヨーロッパの3歳馬の大レースとしてもアイリッシュダービーと競合するようになった。
やがて後発の凱旋門賞が国際的なレースとしての地位が高まって当レースは相対的に地位が低下したが、施行時期や距離の見直しによって現在は凱旋門賞と同コースで行われる前哨戦のひとつとしての地位を確立している。
またこのレースはナイターで実施される。
凱旋門賞との関係
パリ大賞典が始まったことによってイギリスとフランスの競馬交流は一層盛んになり、フランスの見劣りは解消傾向になったが、パリ大賞典はイギリスダービーのような3歳馬の祭典であり、やがて古馬向けの国際レースが求められるようになった。そうした経緯で第一次大戦終戦後に始まったのが凱旋門賞である。
凱旋門賞は当初からパリ大賞典からの流れを想定しており、実際第1回凱旋門賞を勝ったのはパリ大賞典の勝ち馬だった。凱旋門賞は始まって数年でパリ大賞典を凌駕する賞金額になり、パリ大賞典に変わってフランス競馬の最高峰レースへとのし上がった。
その後、フランス国内の他の競馬場やイギリス・アイルランドでも国際的なレースが盛んになったためパリ大賞典の地位は相対的に低下した一方、人馬の交流は一層盛んになり元々パリ大賞典の前哨戦的な意味合いもあったプール・デッセ・デ・プーランやジョッケクルブ賞も国際化して英愛馬を迎えるようになり、フランス競馬の存在感は凱旋門賞を中心として一層向上していった。
そうした交流の中でパリ大賞典も国際的な体系を踏まえた見直しが行われて、2005年から時期が7月に移動、現在の凱旋門賞と同じコースになって、距離短縮されたジョッケクルブ賞からのローテが組みやすくなり、凱旋門賞の前哨戦としての性格が強くなっている。
エミール・ゾラの『ナナ』
19世紀頃のパリ大賞典を描いているのが、フランス自然主義文学者エミール・フランソワ・ゾラの代表作『ナナ』である。
・貧困層から出てパリで上流階級の高級娼婦となった主人公のナナは、パトロンに連れられて1869年の第7回パリ大賞典を見に行く。この競走にはパトロンの所有馬が本命になっていた。パトロンの所有するもう1頭の牝馬には、彼女と同じ名前のナナという名前がつけられていたが、ナナは最低人気だった。ナナはパトロンの助言に従って本命馬の馬券を買う。しかしこの大競走にはある裏があった。
多くの登場人物は愛国的な気持ちからフランス馬の馬券を買うが、ある登場人物は「事情通」で、フランス産馬は英国馬にかなわないと説く。10章では、パリ大賞典当日の朝からレースの後までが描かれる。
『まさにどよめきが満潮のように沸き上がってきた。(中略)その叫びは嵐のような激しさで大きくなり、次第に地平線に充ちわたり、ブーローニュの森の奥からヴァレリアンの丘へ、ロンシャンの草原からブーローニュの平野へと伝わっていった。芝生の上はとんでもない熱狂状態にあった。(中略)フランス万歳!英国はくたばれ!ある者たちはヒステリックに笑いながら帽子を投げていた。またトラックの向こう側の重量測定場の中からも呼応があり、観覧席を揺るがす騒ぎになっていた。』
— 『ナナ』第10章より
また同章では、フランス人にとって、中世以来絶え間なく続いてきた英仏戦争の延長線にあったという描写もされている。
『ひと目で分かる英国人たちが我が物顔に群衆の中を歩き回り、顔を紅潮させ、すでに勝ち誇っていた。昨年はリーディング卿の持馬であるブラマが大賞を獲得したのだった。その敗北は人々の心にまだ傷を残していた。今年フランスが再び負けるのであれば、災厄でしかなかった。』
— 『ナナ』第10章より