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概要編集

世田谷区で玉川上水から分かれ、目黒区品川区を経由し港区に至る用水路である。目黒川渋谷川(古川)の分水嶺を縫うように流れていた。

江戸時代の寛文4年(1664年)に「三田上水」として開削されてから、昭和49年(1974年、資料によっては昭和50年)に廃止されるまで、300年以上におよぶ歴史を持つ。

用水路跡は一応現存の一般道路に沿っているが、ほとんどの区間では道そのものではなく、道から少し入った住宅の敷地内を通っており、特に緑道化されてもいないため、流路そのものをたどれる区間はそんなに多くない。


流路概況編集

1.取水口から山手通りまで編集

京王線笹塚駅の南側には、玉川上水が目黒川・神田川と渋谷川(の支流)の谷を避けるために、グネグネと曲がりくねって流れている箇所があり、その中にそれまで暗渠だった上水が開渠になる区間がある。これが再び暗渠になる入口には格子が設置されており、そのすぐ脇にちょっとした踊り場のような狭いスペースがある。これが三田用水の取水口の跡である。

ここから南東方向に向かって流れ出し、大山交差点に出てからは東京都道420号鮫洲大山線に沿う。小田急線東北沢駅を越え、三角橋交差点の手前で目黒区に入り、東京大学駒場地区キャンパスの北辺を、目黒区と渋谷区の区境沿いに進み、東大裏交差点で山手通りに出る。


2.山手通りから目黒駅まで編集

水路は山手通り沿いを流れる。ここには水路跡の構造物も残されている。やがて山手通りは渋目陸橋と一緒に右にカーブして坂を下りて行くが、水路はそのまま直進して旧山手通りに沿って進む。

国道246号線を越えて、西郷山公園(西郷隆盛の弟・西郷従道の別邸跡地。ここでは三田用水の水を庭園に流すために引き入れていた)の前を通って代官山エリアに続く。駒沢通りの鎗ヶ崎交差点は土地が少し低くなっているが、ここは代官山側の高台から反対側に歩道橋のように鉄製の樋を渡して、道路の上空を通していた。この高架鉄樋は昭和57年頃に撤去されたという。しばらく大通りとは離れた地域を流れて行く。

目黒区内でも有数の急坂である別所坂の上からは水路跡に沿う道が途絶えてしまう。用水路はマンション等の敷地を経て防衛省目黒地区の敷地内に入るが、当然一般人は立ち入れないので大きく迂回する必要がある。

防衛省の敷地の反対側、茶屋坂の上のマンションに突き当たる地点で水路跡と再会することになる。ここにはかつて、掘割の道路を越える隧道(トンネル)があった。

目黒三田通りに出ると反対側の日の丸自動車学校の敷地内に入り(校舎改築以前は校舎と教習コースが道一本隔てられていて、この道が三田用水の水路跡だった。現在は三田用水の案内板と、実際に水路の礎石として使われていたという石が展示されている)、そのまま通りのひとつ裏の道に沿って目黒駅方面に進む。細い道の終点付近、右側の駐車スペースのような空間は、水路跡を転用したものである。目黒三田通りと再度合流して、間もなくJR目黒駅の西口に出る。


3.目黒駅から終点まで編集

三田用水は、JR目黒駅の西口から南側を通って、東口側へとぐるりと回り込むように流れていた。これは目黒駅東口一帯が低地になっているためである。このことは、中央改札を出て西口には階段を上がっていくのに、東口には階段を降りることからも実感できるだろう。この低地は国立科学博物館附属自然教育園の方に向かって続いており、そのまま渋谷川(古川)の水域をなしている。

掘割状に造られたJR目黒駅を、目黒通りは上り線・下り線で別々に陸橋で越えるが、三田用水は下り線の陸橋の少し五反田駅寄りのところを、コンクリート製の樋を通して越えていた。この樋は三田用水廃止前の昭和39年の時点で解体途中の写真が残っており、その後の度重なる駅改修工事により、今ではその樋がどこを通っていたのか、正確な場所を推し量るのは困難になっている。

ここからは目黒通りを白金高輪方面にしばらく進むが、流路跡がどのあたりかは定かでない。しかし自然教育園の向かいのあたりで、右に緩やかにカーブしながら住宅地に入って行く細道が現れる(その右側は目黒川水系の、小規模だが猛烈な深さの谷になっている)。三田用水はそのもう少し先のところで右折していた。

ここでも水路跡は、駐車スペースや住宅の敷地に転用されている。細い階段を降りると、右手に水路の断面を残した遺構が現れる。この付近は目黒川と渋谷川(古川)の支流の谷頭が非常に接近しており、低地になっているのだが、ここは土を盛って堤を築いて強引に突破していた。

その先は住宅街の中の普通の道にしか見えないが、東南東方向に進むと国道1号線(桜田通り)、都営地下鉄浅草線高輪台駅近くの交差点に出る。

実際にはこの先にも水路は続いていたが、現代でハッキリとたどることの出来る三田用水の流路はここまでである。


遺構・その他のトピック編集

山手通りの水路跡編集

山手通りの東大裏交差点から少し南に行ったところに、数十メートルにわたって水路の跡の構造物が残っている。点検用の蓋や、分水口(道路に面して下方に開いた、格子の付いた小さい穴)も見ることができる。

現在残っている三田用水の遺構としては最も大規模な構造物ではあるが、案内板の類もなければ周囲も特に整備されておらず(定期的に雑草刈りはしている様子)、三田用水と知らなければただのコンクリの塊にしか見えない。保存してあるというよりは、放置されているだけというのが正確かも知れない。


防衛省目黒地区編集

現在の防衛省目黒地区と呼ばれる敷地は、江戸時代末期から軍事施設だった歴史のある土地である。三田用水は、この敷地の南西側、目黒川に面する崖の上を流れていた。そもそも最初の火薬製造所の設置にこの地が選ばれたのは、用水に水車をかけて動力とすることができたことによる。

海軍時代には、全長200mを越える水槽が設置され、ここで酸素魚雷の試験や、新型戦艦の模型を用いた水流のテストなどが実施されたという。この水槽およびこれを内包した長大な建造物は、現在も敷地外から見ることが可能である。

そしてこの水槽を満たす水は、もちろん三田用水を流れていた水である。この水槽、試験の際に可能な限り条件を均一に保つためなのか、可能な限り水の入れ替えを行なわないようになっているらしい。現在でも水槽内の水の4割くらいは、三田用水の水なのだという。


茶屋坂隧道編集

防衛省目黒地区の南東側には、新茶屋坂通りと呼ばれる緩く長い坂道がある。この道は昭和3年の開削で、台地を掘割のようにして拓いているため、三田用水の流れを支障する。

ここでは鎗ヶ崎交差点と異なり、三田用水の部分だけトンネル(隧道)にして、トンネルの上を屋根のように台形にし、その頂点に水路を通していた。水路の両端は金網や塀に囲まれて立入禁止だった。

隧道は長さにして10m程度、コンクリート打ちっ放しの簡素な外見だったが、ご丁寧に扁額(トンネルの名前を刻んで、出入口のあたりに埋め込んである表札のようなもの)まで入れてある、謎の気合の入れようだった。

三田用水廃止後も長く残っていたが、平成15年の新茶屋坂通りの拡幅工事に伴い解体撤去され、現在は跡形も残っていない。

しかし、ちょうど隧道のあったところにちょっとした休憩スペースのような一角があり、そこにやたら立派な案内板(というか石碑)があって、隧道の説明文と共に在りし日の写真も掲示され、さらに隧道に付けられていた扁額まで展示されている(本物かどうかは分からないが)。もしかしたら、行政側でも撤去を惜しむ人がいたのかも知れない……。

ちなみに、右から左に「道隧坂屋茶」と書かれた扁額を揮毫したのは、なんとあの西郷隆盛……の、弟の次男の西郷従徳侯爵である。


今里橋と水路断面編集

東京メトロ南北線・都営地下鉄三田線白金台駅の裏手一帯のある地点、妙に細長いシルエットの住宅の脇に、長さ5mあるかないか、高さにしてわずか数十cmほどの、ボロボロになったコンクリートの塊のようなものがある。これは三田用水に架かっていた橋・今里橋の欄干である。裏側に水道管らしき太い鉄パイプがくっついている。「今里」は付近の旧名。

一時期、何者かによって「今 里 橋」と名前を書き込まれていたようだが、今はすっかり消えてしまっている。

そこから下流側に向かって進み、階段を降りると右手にあるのが、何度かテレビ番組でも紹介されたことのある三田用水の水路跡である。コンクリート製の水路が2つ(片方は分水の跡)、断面図のように横から切断された状態で残されている。すぐ側には案内板があり、そこから先の数十mの区間は、水路跡を示したタイルが地面に敷かれている。

ところで、現在プラチナ通りと呼ばれる環状4号線(東京都道418号北品川四谷線)には延伸計画が存在し、白金台から高輪台に至る800mの区間がすでに事業認可を受けている。この計画域内には上記の三田用水の遺構が完全に含まれており、工事が進めばこれらの遺構は、茶屋坂隧道などと同じく撤去される可能性が高い。


細川用水編集

実は三田用水に先んじて、ほとんど同じようなルートを通っていた水路があった。これは細川用水と呼ばれ、現在の白金高輪駅近く、高輪皇族邸を含む敷地にあった熊本藩細川家の下屋敷に水を供給するためだけに開削された水路である。

この水路を開削させたのは、熊本藩細川家第4代当主の細川綱利公である。詳細は省くがいろいろと空気を読まない、かつ大層な浪費家の殿様であったそうだ。「三田上水」が一度廃止され、巻き添えに細川用水も廃止されたその後に亡くなったが、その後三田用水が復活しても、細川用水の方は復活しないまま放置された。造らせた本人はもういないし、誰も必要としないから放っといていいや、ということなんだろうか……。そんな経緯もあって、現在細川用水の遺構は、全く残っていない。


利用編集

元々は上水道として開削されたが、三田用水となってからは(上水時代からも)農業用水として田畑の灌漑に利用されてきた。幕末から明治にかけては上記の火薬製造所などの軍事施設の他、現在の恵比寿ガーデンプレイスの地にあったビール工場(恵比寿駅の駅名の由来となるヱビスビールを製造していた)でも三田用水の水が活用された。末期にはそのビール工場の雑用水としてのみ利用されていたようだが、それも不用となったことで三田用水の歴史は幕を下ろすこととなる。


関連リンク編集

目黒区公式ホームページより

歴史を訪ねて 三田用水 1

歴史を訪ねて 三田用水 2

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