本名・津禰。
明治20年、小学校を退学して京都府画学校に入り、鈴木松年の指導を受ける。翌年、師の松年の退職にともない、画学校を退学、松年塾に入門する。
松年は自分の「松」字に、津禰の実家が銘茶のとれる茶園と縁があったことに因んで「園」字を加え、松園という雅号を津禰に与え、明治21年1月に初めてこれが用いられた。
明治23年4月、15歳の時には第三回内国勧業博覧会に出品した『四季美人図』が、一等褒賞を得る。
明治26年、松年の許可を得て幸野楳嶺の画塾に移る。またこの頃、市村水香の漢学塾に通い『十八史略』などを学ぶ。
明治28年に楳嶺が没し、その高弟竹内栖鳳に師事する。
明治32年、日本画会第二回絵画展覧会で、竹内栖鳳が命名した別号棲霞軒を用いる。
明治33年、第九回日本絵画協会・第四回日本美術院連合絵画共進会に出品した『花かざり』が銀牌(三席)を受賞、出世作となる。
明治35年、長男・信太郎(後の松篁)が生まれる。
明治36年、松園を画業に専念させるため、母・仲子が家業の茶商をやめ、上京区(現・中京区)に転居。
明治37年、第九回新古美術品展覧会で出品した『遊女亀遊』に、会期中何者かが落書きをするという事件が起きる。
大正5年、第十回文展で永久無鑑査となる。この会場に皇后の行啓があり、『古代舞姫(白拍子図)』を御前揮毫する。
大正6年、京都に皇后の行啓があり『初音図』を御前揮毫する。
大正7年、文展会場に皇后の行啓があり、『紅葉狩』を御前揮毫する。
大正10年10月、息子・信太郎とともに伊勢神宮に参拝。この頃から長尾雨山につき漢学と漢詩を学ぶ。
昭和3年、昭和天皇即位の御大典の御用画として『小町草紙洗』を制作。
昭和5年1月には徳川喜久子の高松宮家輿入れのための依頼画『春秋』を制作。3月には第二回聖徳太子奉賛美術展覧会に久邇宮家襖絵の『天女』が出品される。
昭和12年、4月には明治・大正・昭和三聖代名作展覧会に『月影』と『焔』が出品され、6月には、大正5年に貞明皇后より依頼された『雪月花』三幅対をようやく完成させる。
昭和16年、帝国技術院会員に推挙される。
昭和18年10月、六合書院から随筆集『青眉集』が刊行される。
昭和19年、帝室技術員となる。
昭和20年、奈良平城にある、息子松篁の画室・唳禽荘に疎開する。この年、俳人の山崎斌から「青帛の仙女」と名づけられ、自らもその名を用いる。
昭和23年11月3日、女性として初めて文化勲章を受章する。
昭和26年6月、現代美術巨匠展覧会に絶筆となった『初夏の夕』を出品し、8月27日肺癌のため逝去。
享年74歳。