室町時代に篠原城として築かれたのが始まり。
1587年、豊臣秀吉による九州征伐後、小早川隆景の実弟で養子だった小早川秀包が城主となり、近代城郭として大改修を行った。のち秀包は秀吉の甥の小早川秀秋が隆景の養嗣子になったことに伴い別家を建て久留米13万石の独立大名となった。
秀包は1600年に発生した関ヶ原の戦いで西軍に付き改易。三河岡崎城主の田中吉政が筑後国主となり柳川城を本城とし久留米城は支城として次男の吉信を城主としたが1615年に江戸幕府が発令した一国一城令により廃城となった。
しかし1621年、吉政の嫡男・忠政が男子を残さず逝去したことで柳川藩田中氏は無嗣改易。筑後は北部が丹波福知山藩主の有馬豊氏が移され久留米藩を立藩し、南部は陸奥棚倉藩主の立花宗茂が21年ぶりに復帰し柳川藩を継承した。
豊氏は江戸幕府の御墨付きを得て筑前福岡藩主の黒田長政の協力を得て荒廃していた久留米城を21万石の大名に相応しい城として改修を開始、4代藩主・頼元(豊氏の孫)の代の1691年にようやく竣工した。天守は築かれなかった。
幕末から明治にかけて尊王攘夷や二卿事件で大きく揺れることになる。
2017年には続100名城に選定された。