概要
”冨士の巻狩り”とは、鎌倉時代初期に源頼朝が主催した行事である。
翌建久4年(1194年)5月、北条時政・義時父子、和田義盛、三浦義澄・義村父子ら有力御家人を参集して冨士山麓藍原において巻狩りを挙行した。
”狩り”といえども単なるレジャーではない。陣立て(兵力の配置)をあらかじめ考えて獲物を追い込む軍事演習の意味があり、”冨士の巻狩り”以後も”巻狩り”は行われ、”鷹狩り”と名を変えて江戸時代末期までを度々行う武家のたしなみとなった。
平家や源義経、奥州藤原氏ら対抗勢力を滅ぼした頼朝にとっては、軍事演習であるとともに天下を平定し武威を示すデモンストレーションであり、年若い嫡男・万寿(後の鎌倉幕府2代将軍・源頼家)を天下人の後継者とする意図もあった。
万寿も父の期待に応えて鹿を射殺したとされ”冨士の巻狩り”は頼朝の思惑通りに終わると思われた6月7日夜、有力御家人・工藤祐経が曽我十郎・五郎兄弟に襲われて殺害される事件が起き、他にも数人が死傷する事件が起き、さらに頼朝の宿所に向かう事件が起きた。
混乱のさなか、十郎は斬り死にし、五郎は囚われて頼朝直々の尋問を受けることとなった。
五郎は、兄弟の祖父・伊東祐親、父・河津祐泰の親子と、工藤祐経の間で所領争いが起き、父・祐泰は祐経に殺害されたことを供述、兄弟の祖父・祐親も平家に従って鎌倉方と戦って滅ぼされたため頼朝にも恨みがあったと『吾妻鏡』に記述されている。
混乱から「頼朝殺害」の誤報が鎌倉に伝わった。この誤報をきっかけに頼朝は、異母弟・範頼が粛清したほか甲斐源氏の安田義定を誅殺、有力御家人の岡崎義実、大庭景義らも老齢を理由に出家・追放されたとされている。