概要
生没:?~応永4年(1397年)1月25日?
幼名:若犬丸
諱:隆政?
法名:明賢
父:義政
母:藤原氏女(芳姫)
妻:田村庄司氏の娘
子:宮犬丸、久犬丸
「小山義政の乱」で知られる小山氏11代当主・小山義政と正室の小山芳姫こと藤原氏女との嫡男。両親の死後、「小山若犬丸の乱」を起こすが最後は父同様、自害したとも消息不明になったとされる(二つまとめて「小山氏の乱」ともいう)。
後年の足利茶々丸同様、元服はしなかったともされ実際に隆政を名乗ったかは不明。
小山若犬丸フィギュア動画
生涯
父・義政が鎌倉公方足利氏満(尊氏の四男基氏の子)に反乱した際、一時隠居した父に代わり家督を継いだといわれる。当時若犬丸の年齢は10歳過ぎだったとされる。弘和2年(1382年)4月、鹿沼の粕尾で父・義政は自害し母も逃亡中に殺害されてしまう(小山義政の乱)。
逃げ延びた若犬丸は4年後の至徳3年(1386年)に挙兵、祇園城に立てこもり下野守護代・木戸修理亮を破るも氏満に討伐され逃亡。常陸南部に逃れ小田城の小田孝朝に匿われたが、後に所在が発覚し氏満の討伐を受ける事になった。しかし彼らは、所在が発覚した時点で既に逃亡しており、しばらく姿をくらました。
応永3年(1396年)、新田義貞の孫とされる相模守某や田村庄司氏など宮方の残党と組んで挙兵したものの、鎌倉府と白河結城氏の連合軍の前に敗北し田村庄司氏は没落した(田村庄司の乱)。
その後、徹底した氏満の捜索により、若犬丸は応永4年(1397年)正月25日に会津にて自害したとも、更に逃亡し蝦夷地に逃れたともいわれ「小山若犬丸の乱」は終息する。これにより17年に及んだ「小山氏の乱」は終息したものの鎌倉府が関東・奥羽両地方において軍事力によって主導した地域の再編は、鎌倉府と東国地域においてなお争いの火種をまくことになり、応永7年(1400年)には伊達政宗(大膳大夫)が鎌倉府相手に反乱を起こすことになる。
若犬丸の息子である7歳の宮犬丸と3歳の久犬丸は会津の蘆名氏によって捕えられ鎌倉に送られ、金沢八景六浦(神奈川県横浜市)に生きたまま籠に入れられて海に沈められ、ここに小山朝政以来の嫡流は完全に途絶えた。のち小山氏は小山氏初代政光の四男で朝政の弟結城朝光の子孫に当たる結城基光の次男泰朝により小山氏は再興された。
所縁の地
守山城
若犬丸の妻の実家である秀郷流田村庄司の本拠で現在の福島県郡山市守山にあった(現在の遺構は戦国時代のもの)。
秀郷流田村庄司家が没落したあと、坂上田村麻呂の末裔を名乗り三春城(福島県田村郡三春町)に本拠地を移した三春田村氏が台頭する。初代仙台藩主伊達政宗(藤次郎)の正室愛姫はこの三春田村氏出身。
守山城動画
祇園城
至徳3年(1386年)に若犬丸が籠った城。
鷲城などと共に思川(栃木県小山市)の沿いに建つ下野小山家の本拠の一つで城の名の由来は元々は城の近くにあった須賀神社(祇園社)。
戦国時代の後北条氏時代のものがほとんどだが堀や土塁など遺構もよく残っている模様。
城の北側に下野小山家の菩提寺「天翁院」がある。
小田城
南北朝時代には南朝の拠点となった小田氏の城。
1387年(嘉慶元年)に若犬丸が小田氏当主の小田孝朝に匿われていることが露見し、すぐさま鎌倉公方方は小田城を攻撃。若犬丸らは小田城を捨て難台山城に逃れた。
小田城は小田家最後の当主となった小田氏治の経歴から落ちやすい城というイメージを持たれている模様。
難台山城
小田城から逃れた若犬丸に小田孝朝・藤綱父子らが篭った峻険な山城(茨城県笠間市~)
伝小山若犬丸二児の墓
金沢八景六浦にはこの地で処刑された小山宮犬丸・久犬丸兄弟のものと伝わる墓。
※現在は民家の裏庭になっている
また、この二人を題材にした「小山安犬」という能があったが反逆者を題材にしているということで長い間廃曲になっていたが、近年栃木県小山市民の有志によって復活した。