摩多羅神のことは天竺支那扶桑の神なりや、其の義知れ難し。 支那の神に非ず、又日本の神にも非ざれば、知らす人疑いを起す輩もあるべきことなり。─覚探「摩多羅神私考」
概要
摩多羅神の神像は輪王寺の「摩多羅神二童子図」において、狩衣を着て唐風の幞頭(烏帽子)を被り、笑みを浮かべながら左手に持った鼓を打つ姿で描かれ、手前に笹と茗荷を持って舞う二人の童子(右が丁禮多、左が爾子多)、頭上に渦巻く雲の中で輝く北斗七星が配される。
摩多羅神は謎が多い神であり、その神性は歴史の中で遷移と変質を繰り返して掴みがたいため以下に列挙していく。
後ろ戸の神
14世紀に書かれた「渓嵐拾葉集」巻39では唐において引声念仏を学んだ慈覚大師円仁が船に乗って帰国する途上で『我が名は摩多羅神。障礙神なり。我を祀らなければ往生の願いは達せられないであろう』というお告げを聞いた。そして帰朝した円仁は比叡山の常行堂にこの神を勧請、阿弥陀信仰を始めたという。摩多羅神は本尊仏である阿弥陀仏の裏側、堂の後戸に控える存在として奉られたことから“後戸の神”と称された。
また、続く記述では摩多羅神は摩訶迦羅天(マハーカーラ)であり、また荼枳尼天(ダーキニー)であるとしている。この天の本誓は“臨終しようとする者がいる時、我(摩訶迦羅天)はその屍の肝を喰らい、正念往生を遂げさせる。もし我が臨終の際にその屍の肝を食らわなければ、正念往生を遂げることはできないだろう”とされている。
以上の説話は堂行堂が止観の道場から念仏声明に携わる僧たちの聖所となっていく過程で、阿弥陀仏の垂迹神としての神格が創造されたことを示すものとされる。その中での摩多羅神は荒ぶる障礙神の側面と、篤く奉れば人々を往生に導く念仏の守護神の側面という二面性を持つ存在として言及されている。なお、この船中の説話は円仁自身が著した「入唐求法巡礼行記」に一切登場しないものである。
同じく「渓嵐拾葉集」巻67に「堂行堂天狗怖し事」という一文があり、延暦寺の堂行堂衆は夏の末に堂行堂で大念仏を行うが、本尊の前では方式通りに引声する一方で摩多羅神を奉る後戸において跳ね踊り、順序なく経を読んで「ケニヤサハナム」という呪文を唱和する作法が行われたとされ、これを山門の古老は“天狗怖し(てんぐおどし)”と申し伝えている。「ケニヤサハナム」とは“現にや娑婆なむ(これが現実の世の中だ)”、“げにや障はなむ(まことに障りをなしてほしい)”と解釈され、跳ね踊りと唱和を通して障碍神である摩多羅神の力を奮発させて修行の障りとなる天狗たちを退ける目的があると言われる。
芸能の神
先に書いた“後戸”の起源だが、世阿弥が著した「風姿花伝」には申楽の縁起がある。
須達長者が祇園精舎を断てて釈迦を供養した際に提婆達多が一万人の外道を連れて説法を妨害しようとした。それに対し、舎利弗が“御後戸”にて鼓・笙鼓を鳴らし、阿難の才覚と舎利弗の知恵と富樓那の弁舌によって六十六番の物まねをしたところ、外道たちはそれを聞いて鎮まったとされ、ここから申楽が始まったという。そして金春禅竹の「明宿集」では猿楽に出てくる“翁”は“宿神”であり、またその翁の面を日本における申楽の始祖である秦河勝の化身とみなしている。
そして日本文化史家の服部幸雄氏は、摩多羅神が秦河勝及び秦河勝を神格化した大避明神と同一視されたことで猿楽法師たちの守護神として確立、さらに院政期の天台寺院を本所とする後戸猿楽に奉られ、上記の翁の成立に深くかかわる存在であったとしている。
猿楽の翁と摩多羅神の関連は強く、多武峰の妙楽寺には『摩多羅神・多武峰 堂行堂』と面箱に記されていた白色尉の面が伝えられている。
北斗七星及び星の神
図像において摩多羅神の頭上に北斗七星が描かれているように、摩多羅神は妙見菩薩や北斗七星の輔星(アルコル)、そして「明宿集」の宿神など、星と関連深い神である。特に「明宿集」では翁面の目、耳、鼻、口は北斗七星を示し、山王権現と結びつくものであると記しており、別の箇所で翁は日月星宿の三つの光(三光)であり、翁舞の式三番はその象徴とすると書かれている。
さらに松浦静山の随筆「甲子夜話」には以下の話がある。
1、2年ぐらい前に下谷新寺町にあった松前氏の邸のあたりを月夜の晩に通りかかった人がした話を聞いたが、邸の屋根の上に跨る人がいたという。その人は烏帽子と浄服を身に着けて詩歌を吟じており、以降も同じような怪人物の目撃談が続いた。去年、松前氏の旧領である蝦夷が幕府から返還されたが、それに伴って屋根の上の怪人物は摩多羅神であろうとある人が言った。その人が言うに、神祖(徳川家康)は摩多羅神を篤く奉っていたが、松前氏は日ごろから神祖を崇敬していたので摩多羅神が現れて助けたのだろうと説明した。
この話の摩多羅神は屋根の上で星読みを行っており、同時に摩多羅神と星辰信仰、江戸の北辰信仰が当時結びつけられていたという解釈(河出書房新社「闇の摩多羅神」)がある。
玄旨帰命壇
摩多羅神にまつわる祭祀の成立は天台宗の恵檀二流(恵心流、檀那流)、特に檀那流の玄旨帰命壇と同時期とされる。玄旨壇は“一心三観”の奥義を授ける灌頂(法水を頭に注ぐ儀式)壇、帰命壇は衆生の生命の根源が一念三千にあることを踏まえて実現させる儀式である。
摩多羅神は本尊として壇上に奉られ、障碍神として二童子と共に衆生の煩悩、三毒(貪・瞋・癡)を表徴しつつ、煩悩そのものが“本覚”と“法身”の悟りの境地である“煩悩即菩提”を表現する。この儀礼は歌舞を伴う性的な意味を示す所作により奉られたとされ、「摩多羅神軌儀」には左の童子が“指々利子、子々利指”、右の童子が“蘇々呂蘇、ソソロ蘇”と歌うとされる。「玄旨重大口決」ではこの歌の“シリ”は大便道の尻、“ソソ”は小便道の性器を意味するとし、歌舞は性行為の暗喩と解釈している。この性愛秘儀のイメージは後に真言立川流と結びつけられる要因となった。
ちなみに「持教本尊口伝」の帰命壇のくだりには、頭部の穴を北斗七星、身体の九穴を九曜になぞらえる等、星辰信仰の影響が明瞭にうかがえる記述が存在する。
摩多羅神の語源解釈
「摩多羅神私考」を著した覚探は摩多羅神の語源を仏典に登場する摩怛哩天に見出し、さらに摩怛哩天が閻王の姉妹であることから七母天に関連付けている。
そして、神話学者の彌永信美氏は摩多羅の音感から“matarah(マターラ)”、サンスクリット語の“matr(母)”の複数形、いわゆる「諸母天」を意味したものと解釈している。
関連タグ
・摩多羅神を元に作られたキャラクター
・二童子を元に作られたキャラクター