※メイン画像およびpixivに存在するイラストは後世の通説に基づくものである。
概要
真言宗醍醐派の流れを汲む密教宗派。その血脈相承(仏教における師子相伝)は醍醐派の大本山の一つである三宝院に遡ることができる。
開祖は蓮念と見蓮で、12世紀に誕生した。大本である醍醐派は今も信仰され、三宝院も一度は焼失したが再建されている。しかし立川流は江戸時代中期には断絶してしまった。
その詳細については今もわからない部分が多いが、由緒ある宗派・寺院にて相伝された仏教解釈を元にしたオーソドックスな密教宗派だったとみられている。
その滅亡と資料の散逸の背景には、後述の風説の存在がある。
カルト教団「彼の法」集団と混同され、後に2000年代に、ドイツの日本学者シュテファン・ケック(Stefan Köck)らによって本格的な史料批判が始まり、真言立川流・「彼の法」集団(髑髏本尊を祀る教団)・文観派の三者はそれぞれに全く関係がない集団であると彌永は主張している。「彼の法」集団(俗に言う立川流)についてではない、本来の意味での立川流に関する研究は醍醐寺の学僧の柴田賢龍らによって初めて為された。
通俗的な「立川流」観の形成
13世紀の立川流の僧侶・心定は『受法用心集』という書物を書いた。この本の中で彼は「荼枳尼天を祀り髑髏本尊を仏具として使用する教団」について言及している。心定はこの教団がする行を「邪行」と呼んだ。
後世における「立川流」観の肝となる「ダキニ天信仰と髑髏本尊」の組み合わせは、立川流とは別の教団のものだったのである。
が、真言宗他派の仏僧による著作でネガキャンが行われ、髑髏本尊を使用するのは立川流のほうだということにされてしまった。
高野山の僧・宥快による『宝鏡鈔』において、醍醐寺の座主をつとめた文観も立川流ということにされ、後の時代には文観のほうも設定を盛られ、怪僧のイメージをつけられた。
この混同化作戦は現代に検証されるまでバレることがなく、大衆小説やポップカルチャー等で「真言立川流」の名前がロマン溢れる(?)淫祠邪教として描かれ続けた。
『受法用心集』で言及される髑髏本尊教団(R-18閲覧注意!)
荼枳尼天(ダキニ天)にまつわる「外法」と称される修行法を行っていたとされる宗教団体。
教団名および宗派名は不明。彼等自身じぶん達の教団や宗派について特定の名称を与えていない可能性もある。
仏教・美術研究者である彌永信美は『受法用心集』での表記を受けて、この集団を「彼の法」教団と呼称している。
エロティックな表現がある密教経典『理趣経』を聖典とし、通常の真言宗では比喩表現とされる文章を直解し、性的な行法を行っていたという。
君主や行者の親の頭蓋骨や、構成する骨の繋ぎ目である縫合線が見えない頭蓋骨や、儀式によって聖別された頭蓋骨に和合水(男女の性交中に出る精液と膣液を混ぜ合わせたもの)を塗りつけ、その上から金箔や銀箔を張ったり曼荼羅を描く等のさらなる加工を行う。
この頭蓋骨は加工が完了すると本尊として扱われるようになるのだが、本尊として完成するまでにも脇でひたすらセックスする。
髑髏本尊には多大な利益があるとされるが、本質はその作成のプロセスにあるともいい、作成作業(真言を唱えながらひたすらセックス)を通じて男女の行者が悟りを得る事こそ本懐なのだという。
日本には性的儀礼を含む後期密教は伝わらなかったのに、収斂進化を起こしたという点も興味深い。
また京極夏彦は自作『狂骨の夢』にて「髑髏本尊は代用品に過ぎず、本当の本尊はその教義の結果当然に生ずるもの=セックスによって女性側が妊娠、出産し、そこで産まれた子供である」とし、「男性主体な思想が多い仏教諸派の中でも稀有な、男女そろう事が悟りを得るために不可欠という、淫祠邪教どころか男と女が同等の権利を有す宗派」との解釈をしている。
前述の通り、彼等は自分達の教団名を持たないか、表明していない。「立川流」のラベリングを除けば「髑髏本尊」「外法・邪法」「淫祠邪教」のキーワードでくくられた事例を寄せ集めたものとも言える。そして、ネガキャンから出たものである以上、これらは髑髏本尊教団側の記録でもない。非常に謎が多い。
実際の立川流と異なり、当時の権力側から世を惑わす淫祠邪教と見なされ弾圧の対象となり、グループは壊滅した。髑髏本尊教団側の資料は焚書に遭っており、この教団についての信用できる現存資料は『受法用心集』くらいだとされている。
なお、歩き巫女の一つである信濃巫は、外法箱を使う口寄せを行っていたが、この外法箱の中身は仏像と猫頭の干物、白犬の頭蓋骨、男女が合体している木像との記録が残っており、これは内三部流の末裔とされる14世紀末の「狐・犬・狸などの髑髏を所持している巫女」に類似している。