1933年、旧制松山商業学校を卒業。
1936年、立教大学を中退して大阪タイガース(現・阪神タイガース)に入団。
黎明期の阪神の主力選手として活躍。打撃では約1kgものバットを使ってフルスイングを見せ、1937年春と1938年春には打点王、1937年秋には首位打者を獲得した。投手としても優れており、1936年秋には防御率0.79(シーズン歴代2位)で最優秀防御率、さらに勝率1.000で最高勝率も手にした。勝率10割での最高勝率はプロ野球においてもたった4人しか記録されていない大記録である。また、強肩でも知られており、遠投144mという圧倒的な記録で優勝した事もある。
1945年5月20日、フィリピン・ルソン島のカラングランにて戦死した。享年31であった(29歳没)。
1965年に殿堂入りを果たしている。