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概要編集

元は劉璋配下の武将であったが、のちに劉璋を倒してを奪った劉備に従った。

非常に空気の読めない言動で四方八方に喧嘩を売った挙句に処刑された。


劉備に喧嘩を売る編集

正月の酒宴の席で李邈が諸将に酒を注いで回っていた際、「将軍(=劉備)は劉璋様と親戚だったのに、劉璋様から命じられた張魯討伐も果たさないうちに反逆して益州を奪ったのは道義に反することですよ」と上から目線で劉備を叱ったという。


若い頃の劉備なら「ああん?オドリャ舐めてっと天井から吊り下げて回転さすぞコラ」ぐらいは言い兼ねない無礼な発言だが、彼も年を取って温厚になったのか「そう思うのなら何故お前は劉璋を助けなかったのか?」とだけ返した。

すると更に李邈は「本当はお助けしたかったんですが、力が無かったのでできなかったんですよ」などとヘラヘラと返事をした。


劉璋の為に戦った者達が沢山いるのを知っていた劉備は今度こそ激怒して処刑を命じたが、諸葛亮によって擁護されてなんとか処刑を免れた。


諸葛亮にも喧嘩を売る編集

ところがこの時の恩をすっかり忘れてしまったのか、今度は命の恩人である諸葛亮に対してKY発言をかます。


それは第一次北伐の折。

馬謖の命令違反が原因で敗北してしまったため、彼を高く評価していた諸葛亮は泣く泣く馬謖を斬ろうとしていた。

ところが李邈は馬謖の処刑が執行される寸前に、

「昔の秦は臣下の失敗を許したことで大成し、逆に楚は名臣を殺してしまったから結果的に滅んでしまいました。馬謖ほどの臣下を処刑してどうするつもりですか?」などと発言した。


悩みに悩んだ末に仕方なく馬謖の処刑を決めた諸葛亮は流石にキレそうになるも、どうにか怒りを抑え込み、李邈を成都へ強制的に帰還させるだけで済ませた。

降格・免官や投獄などはしていないため、ここでも諸葛亮の恩情に救われた形となる。


なおタイミングが最悪だっただけで内容自体はそこまで的外れなわけでもなく、蒋琬が同じようなことを言って諸葛亮を諫めたのは処刑が実行された後だったため、彼は何のお咎めも受けなかった。


劉禅にまで喧嘩を売った挙句に処刑される編集

諸葛亮が五丈原で死んでしまうと劉禅も多くの家臣達も彼の死を悲しみ、喪に服していた。

特に劉禅は諸葛亮を第二の父とも慕っていたため、その悲しみは並大抵ではなかったようである。


ところがつくづく人の気持ちが分からないこの男、劉禅がまだ悲しんでいる最中に死体蹴りのような発言をかました。

曰く、「諸葛亮は軍権を握りながら皇室を守る外戚の力を削ごうとしており、私は彼がいつ反乱を起こすか気が気ではありませんでした。諸葛亮が死んでくれたお陰で劉禅様も安泰だし、北方の蛮族どもも安定しております。実にめでたいことですな」と。


この発言には日ごろ温厚で知られる劉禅も珍しくブチギレて、李邈は投獄の上処刑されてしまった。


正に「口は禍の元」或いは「自業自得」という言葉を体現するような男であった。


余談編集

裴松之の註では、彼ら兄弟は「李氏の三龍」と呼ばれたが、李邈の頭のおかしさでは到底「三龍」には含まれないよね~、他にもう一人いたんだろうね~と述べている。


次男の李朝、三男の李邵、そして名前不詳な四男が李氏の三龍に該当すると思われる。

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