概要
幽州涿郡涿県の出身。
黄巾の乱の追討に功績を挙げた将軍の一人。三国時代の蜀漢を興した劉備や公孫瓚の師でもある。
身長は8尺2寸(約195cm)で、声は鐘のように大きくよく響き、剛毅で節度のある性格。
若い頃に、鄭玄とともに馬融に師事して儒学を学び、古今の学問に通じた。
熹平4年(175年)に九江蛮が反乱を起こすと、文武の才能がある人物として推薦され、九江太守に任命された。蛮族が降服すると、盧植は病のため官職を去って故郷の幽州涿郡に戻った。そこで学舎を主宰し、劉備や公孫瓚といった近隣の子弟に学問を教えた。
中平元年(184年)、黄巾の乱が起きると、盧植は北中郎将に任命されると、盧植は兵を集めて反乱軍の指導者である張角の討伐に向かった。盧植は張角の軍を大いに破って広宗に敗走させたが、そこに軍の監察の使者の左豊が派遣される。左豊は盧植に賄賂を要求したが、盧植がこれを断ったため朝廷へ戻ると霊帝に「盧植は戦おうとしない」と讒言したことで、盧植は怒った霊帝に罪人に落とされ、官職を剥奪されて収監される事となった。後任として董卓が黄巾賊の討伐に赴くが敗走して免職されている。
後に皇甫嵩、朱儁らが黄巾を平定したが、皇甫嵩が盧植の功績を大いに称えたため、盧植は許され再び尚書に任命された。
光熹元年(189年)、何進は宦官皆殺しに反対する何皇后に圧力をかけるため董卓を呼び寄せようとしたが、盧植は董卓の凶悪な性格を知っていたため、それを止めさせようとしたが、何進はそれに従わなかった。結果、何進は宦官達に暗殺され、董卓が実権を掌握することに。
董卓が帝を少帝から献帝に挿げ替えようとすると、董卓の暴虐さに誰もが口を噤む中で、盧植のみがこれに反対した。そのため董卓によって処刑されかけたが、周囲の取り成しで助命され、免職だけに留められた。
その後、盧植は逃亡して郷里に隣接する上谷郡で隠遁生活を送った。その後、冀州牧となった袁紹に招かれて軍師となり、初平3年(192年)に病死した。
三国志演義
おおよそは正史の通りだが、黄巾の乱では義勇軍を率いる教え子の劉備と再会する。左豊の讒言で陥れられて、囚人車で都に護送されるところを行き会わせた劉備らが発見し、その仕打ちに激怒した張飛が力尽くで救おうとするのを叱咤して止めさせる。