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葛飾応為

かつしかおうい

江戸時代の浮世絵師・日本画家の女性。葛飾北斎の三女で、北斎の相棒を務めた。 美人画においては北斎をして“天才”と言わしめ、北斎の作品には彼女が単独で描いたものが多数存在する。
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葛飾応為とは、江戸時代の浮世絵師である。

概説

生没:不詳(推定:寛政13年~慶応年前後)
本名:栄(えい)
出身:武蔵国(江戸)

浮世絵師葛飾北斎の娘。
北斎の三女として生を受け、幼いころから父の仕事を見て育ち、その後北斎の相棒として仕事を共同で行うようになったとされる。

デビューはわずか10歳のとき。
北斎が『狂歌国尽』の挿絵を請け負った際、娘の才能を見込んで「霧の中を行く帆掛け船」の場面を任せた時が最初と推察されている。
実際の挿絵には、北斎によって「栄女筆」と筆が入っている。
以来、北斎の生涯の相棒として北斎を支え続けることとなった。

当時としては希少なキャリアウーマンであり、一度結婚してはいるが、すぐに出戻りとなって絵師の仕事に従事している。
雅号「応為」の由来は諸説あり、北斎の雅号「為一(いいち)」に掛けて「為一に応える」から応為とも、栄が仕事中に「おーい」と北斎を呼んで頻回に指示を仰いだことから「今日からおまえの名前はオーイだ!!」と叱ったことをそのまま利用した、ともいわれる。
尚、同じく北斎の娘とされる絵師「葛飾辰女」についても、筆跡や絵の細部描写の一致から応為の若い頃の画号であるという説がある。

北斎の死後から8年後に出家して尼となり、その後加賀前田藩に召し上げられ65歳前後まで生きたと考えられている。

作風

北斎の才能を直接継承したと言い得る天才肌の女性。
北斎の画風をそのまま受け継ぎつつも、大胆で戯画的な父とは違い、女性らしい繊細で優美な筆致を得意とした。
女性ではあるが、挿絵・美人画・春画・枕絵と、題材を問わず何でも書いた。

特に美人画においては北斎さえ――
「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」
と言わしめさせたと伝わっている。

また後年は西洋画にも強い興味を示し、特に「光と影」の対比を題材とした作品を数点遺している。

応為の名が残る作品はわずか10点ばかりと少なく、来歴については不明瞭な点が多い。
これは絵を商う版元が北斎のネームバリューを優先し、応為の独力で仕上げた作品も一絡げに「北斎ブランド」として扱ったことが原因と見られている。
事実、北斎の作品群には北斎本来の作風とは異なる、穏やかでたおやかな作品が数多く存在する。
これらこそ応為の手掛けた作品と目されており、現在ある「葛飾北斎」の作品群は父娘二人の軌跡といって差し支えないものと考えられるようになってきている。


人物

伝わるところによると「男っぽく任侠風を好み、貧乏や散らかりを気にしない大雑把な性質」とされ、父・北斎からは画才のみならずズボラ加減まで受け継いでしまったらしい。
嗜好も父と似たらしいが、父と違ったのがタバコを嗜み煙管を吸っていたところだという。
ある時うっかり北斎の作品に煙管の灰を落として燃やしてしまい、ひどく悔やんで禁煙したことがあったがしばらくするとまた吸い始めたというから、結構なヘビースモーカーだったと思われる。

出戻りとなったのも父からのズボラの遺伝が関係しており、とかく当時の女性として必要ないわゆる女子力や生活力というものをとことん欠いていた。
婚期になっても一向に嫁入りを考えない応為を心配した北斎が知人に頼んで縁談相手を探してきてもらい、琳派の画家・堤等明のもとに嫁入りすることになる。
しかし嫁入り先で鍋の湯も沸かさず、日がな一日絵を描き続け、挙句旦那の画才を鼻で笑ってしまい、堪忍袋の緒が切れた等明が三下り半を突き付けて返品するに至る。
応為も絵描きに戻ると言ってきかず、結局北斎が手元に置いておくことを決めたという。

ただ北斎も北斎で金銭的な執着がなさ過ぎる極楽とんぼ気質で、絵に関することだけで身銭をはたいてしまうため、どうしても金策が必要なときには応為が苦心して用立てしたいたという。

ちなみにそれほど美人でもなかったらしく、白粉もせず日に焼けた肌と大きな顎をしていたという。
父からはその顎から、そのまま「あご」というあだ名で呼ばれていた。

関連タグ

日本 女性
美術家 浮世絵師
葛飾北斎

関連作品

百日紅

Fate/GrandOrder(ある事情から葛飾北斎名義のサーヴァントとして登場している。)

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